michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

食べざかりのノリ

 

薦田愛

 
 

ご飯ごはん
ごはんが大好き
パン好きナン好きラーメンも好き
せやけどやっぱり
ご飯ごはん
ご飯がないと始まらへん
朝ご飯昼ご飯晩ご飯
たまの外食も
おかわり大盛りあたりまえ
朝が早いからお弁当は十時
部活でお腹がぺこぺこ
ちゃうで
還暦まぢかい
おじさんのはなし

五分づき米もしくは白米を一合炊いて
小ぶりの茶碗で三杯
つまり三度の食事で私が食べおおせるところ
ユウキとふたりなら
一度でゆうに一合半は要る
ご飯ごはん
いちごうはん
いちごうはん、は微妙な量
とある夕食どき
多めに炊いてあった残りを目ではかり
ま、だいじょうぶやろ
炊き足さんかったん
ご飯ごはん
肉じゃが四人前、かぶの葉とちりめんじゃこのおひたし
フンドーキンの麦味噌を使った
さつまいもと小松菜と椎茸の味噌汁
くわえて前夜のれんこんとにんじんとごぼうのきんぴらも
八畳間の炬燵にならべ
「おいしいねえ
 うちで食べるご飯がいちばん」
と笑みくずれていた顔が
おっと
はやばやとおかわり
キッチンに向かって戻ってくるなり
くもってるやん
きけば
「ご飯が足りない・・・・・・」

力のない声
ああ
かんにんなぁ足りると思ったんよ
おかずがようけあるし
けど
おかずにつられてご飯がほしなるのも
わかるわぁ

それにしても
ちゃんと噛んでる?
ごはん飲んでへん?
ご飯ごはん
ご飯が大好き
朝二杯昼二杯夜二杯
雨ニモ負ケズには
日ニ四合ノ玄米とあるけど
それは味噌と少しの野菜とセットの時分
肉も魚ももりもり食べてる
きみと私は
気をつけんと ね
つい ね
ついつい食べ過ぎて
ううむうう~ん
胃散でなだめたりね
言いますやん
腹も身のうちって

「日本人はもっと米を食べなくっちゃ」
そやねそれに日本人はっていうか
何よりお米は美味しいものね
家計簿みて思わず
目ぇこすったけどな
月に十五キロほど食すらしいねん
ユウキと私
まちがいなく
二十一世紀の日本で稀な米食家族
お弁当にくわえて
時にみずからおむすびも結んでゆくユウキの
ムダをきらう気質と贅肉のない身体は
パンも好きナンも好きラーメンも好き
けどやっぱり
ご飯ごはん
五分づき米と白米もりもり食することで
つちかわれてるんやろな
きっと
知らんけど

 

 

 

Put out the light before you go to bed.
寝る前に明かりを消しなさい。 *

 

さとう三千魚

 
 

woke up at midnight

stairs
came up

at Bandcamp
I’m listening to Tori Kudo’s “blues 1993 january Ogikubo goodman”

1993 is me

it’s the year I left Tokyo

I’m taking a detour
I’m listening to Tori Kudo’s piano

no regrets

here
listening

Put out the light before you go to bed *

 
 

深夜に目覚めた

階段を
上ってきた

Bandcampで
工藤冬里の “blues 1993 january 荻窪 goodman” を聴いてる

1993は
わたし

東京を離れた年だ

だいぶ
遠回りして

工藤冬里のピアノを聴いてる

後悔はない

ここで
聴いてる

寝る前に明かりを消しなさい *

 

 

* twitterの「楽しい例文」さんから引用させていただきました.

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

カンヌ出品のためのアプリケーション・フォーム

 

工藤冬里

 
 

title: Archive

target: コロナ下で自宅待機させられているすべての人類

synopsis: 監督自身の、何代かに亙る携帯電話~スマホに保存されていた今世紀初めからのデジタル画像。

usage: ガラ携からスマホへの移行に伴って画質も変化していく。画像がほぼ年代順に並んでいるだけなので、どこから見ても、飛ばしても良い。ゴダールの「ソシアリスム」のトレーラーをややゆっくりさせたようなものである。一時間半に及ぶ単調な画像の羅列の後、エンドロールに主題歌「アルシーヴ」が挿入される。
 
remarks: 映画よりも現実の方が劇的であることは近年特に顕著に感じられるようになってきた。ゆえに我々が、作られた映画を見る必要は年々減じてきているように思われる。そのような状況下で、自宅待機の人々の関心は「自分史」に向かい、それはデジタル画像のアルシーブ化を意味するだろう。家族の監視の状態で行われる画像の取捨選択の作業には、ジャック・デリダの言う<法>が介入する。この映画の鑑賞とは、その捨てられた写真たちによる「アルシーブの亡霊」を観るということなのだ。映像は個人史のアルシーブ作業とインターネット上の”陰謀論”ニュースだけになるだろう。これが映画史の終わりである。

 

 

 

#poetry #rock musician

The noise grew fainter and fainter, till it was heard no more.
その物音はだんだんかすかになっていき、ついにはもう聞こえなくなった。 *

 

さとう三千魚

 
 

I was listening to Philip Glass’s “Metamorphosis”

in the middle of the night
I was listening

soon
it’s 23:00

let’s sleep

there was a road in the forest and white lilies were in bloom.
it smelled like a lily

let’s sleep
let’s sleep

in “Metamorphosis”

The noise grew fainter and fainter, till it was heard no more *

 
 

フィリップ・グラスの”Metamorphosis”を聴いてた

夜中に
聴いてた

もうすぐ
23時だ

眠ろう

森のなかには道があり百合の白い花が咲いていた
百合の香りがしていた

眠ろう
眠ろう

“Metamorphosis”のなかに

その物音はだんだんかすかになっていき、ついにはもう聞こえなくなった *

 

 

* twitterの「楽しい例文」さんから引用させていただきました.

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

荻窪Goodman1984-1986を編集する園田佐登志

 

工藤冬里

 
 

付録でもんだいなのは、このアルシーヴ化のなかの、アルコン的、(言い換えれば公文書管理的)部分、つまり、前デジタル期におけるテクストを集め分類する、その権威主体が裂開しているということである。そこから立ち上るゆうれいが同じものではないということが、アルシーブ化に<法>が介入する鮮やかさに濁りを与えているのである。パラレル通信に限って言えば、園田は動機を問題にし、小山はポストモダン下のその時点で出来る範囲の観照を行い、大里はただ音楽を聴いている。ヨブの三人の友のように彼らは正しく、そしてヨブは居ない。

 

 

 

#poetry #rock musician

30才

 

みわ はるか

 
 

今年度、とうとう30才になってしまった。
何者でもなくここまで来てしまったわたし、いいのだろうかと頭をかかえる。
「しまった、しまった」と後悔することばかりだけれどいいだろうか。
なりたかった30才になれただろうか(そもそも30才になりたかったのかどうか)。
来てしまったものを追い返すことができない今、仕方なく受け入れる。
町のアンケートの年齢記入欄に、そっと(30代~)の部分に小さく丸をつけた。
ふっーと大きなため息がもれた。

先日、自動車免許証の更新に行った。
かくかくしかじかあって、18才で免許をとって以来初めてのゴールドカードだ。
ゴールドカードになると次の更新まで5年あるという。
身分証明書としてよく使われる免許証、そこに写っている自分の顔・・・・・・・、長い付き合いになるということ。
これは大変と、まだ毛布にくるまっていたいと思わせるような寒い朝、いつもより早く起床した。
念入りに化粧水を塗って乳液も細部まで慎重に。
軽くドライヤーで髪に空気を入れ、ヘアアイロンで髪先まで丁寧に整える。
朝食はいつも通りバナナ、ヨーグルト、チーズと済ませる。
温かいほうじ茶を流し込みお腹を満たす。
これでもかと降り続ける雨をげんなり見つつ、化粧を始める。
昨日のニュースをテレビで確認しつつ、念入りにアイブローをひいた。
最近おろそかにしがちなチークや口紅もさらっと馴染むようにつける。
5年間付き合える顔になんとかなったかなぁと、何度も鏡の中の自分を食い入るように見つめる。
朝一の講習のためあっという間に家を出る時間となった。
上だけスーツに着替え、下は暖かいパンツスタイル。
上着を着るので大丈夫、上着を脱ぐのは写真撮るときだけと自分を納得させ家を出る。
さっきよりひどくなっている雨には舌打ちしたい気分になった。

10分前に会場に着いたのにもう人でいっぱいだった。
急いで手続きを済ませる。
コンタクトを代えたばかりというのもあり目の検査はばっちりだ。
そしていよいよ写真撮影。
急いで上着を脱いで上だけスーツスタイルになる。
撮影者や後に並んでいる人たちの「早くしてくれ」という心の声にも負けず、鏡の前で最終セットにかかる。
うん、悪くない、いいのではないかとうなずき、さっと撮影カメラの前に腰を下ろす。
一瞬だった。
「はい、次の人~」
まるで回転ずしのようにその場を離れ次の講義室へと誘導された。
ありがたいお話を30分聞き、講習は無事に終わった。
そしていよいよ、これから5年間もお世話になる新しい免許証の交付が始まった。
20番だったのでドキドキしつつも身支度を済ませてお行儀よく待っていた。
20番といってもここでも回転ずしの様にスピーディーな対応だったため、あっという間にわたしの手にはNEW免許証が収まっていた。
・・・・・・・・・・・・、可もなく不可もなくといったところだろうか。
あえていうなら、口紅をひいておいてよかったな、少しは映えたなという感じ。
死んだ魚のような顔をしていた前の免許証からしたらずっといいなと自分を納得させた。
次の免許証更新日を見た。
ふぅー、その時はもう35才かぁ。
どんな人生をおくっているんだろう。
考えたらなんだかぞっとした。
首を大きく左右に振って今は考えないことにした。
外に出ると雨はあがっていて、危うく傘を持ち帰るのを忘れるところだった。
大きな水溜まりが至る所にできていた。

元々ある貧血がひどくなった(寝込むことも増えた)。
離れて暮らす兄弟にこちらで有名な肉のステーキ(わたしは食べたことない)を送った。
ゴミの分別が心底めんどくさいと思い始めた。
SNSで地元に残っている知り合いや友人のアカウントをかかさず見るようになった。
新しく接する人と関係を築くのが億劫になった。
犬を今まで以上に愛でるようになった。
遊園地にある廻るブランコに10回ぐらい乗りたい。
城崎温泉、尾道、房総半島、しまなみ海道へ行ってみたい。
誰かに必要とされたい。
ちゃんとした「何者」かになりたい。

あぁ、30才、きれいな数字だ。

 

 

 

陽春白雪

 

工藤冬里

 
 

例えば春に、遠くの雪山をスマホで撮ると、頭で考えているより小さくてがっかりすることがありませんか? 遠近法を無視したり変えたりするのが絵画史であったと言えます。例えばソ連の素朴画家の「わが息子」という絵は息子が山より大きいし、松山の三津浜駅の「三津浜図」は遠く富士山まで俯瞰していて、これらの遠近法は地球が平面であるのと同じくらい正しい。
さて祖父の描いた戦前のモンパルナスです。彼の場合、遠近法はそのままに、強調したい丘のみを物理的に他より厚塗り(二センチくらい)するわけです。ですから絵というよりもはや立体に近い。ルオーは絵の具を削り落としてはまた塗るという作業を繰り返したそうですが、祖父の場合はケントリッジか石田尚志かというくらい途中経過も全て残しながら層を堆積させていったのです。それが僕の最近の、ボイスメモをGarageBandで重ねた「練習!パフォーマンス」という声の作品の情報処理の不器用さとふと似ていると思ったのです。

 

 

 

 

#poetry #rock musician

Turn off the radio.
ラジオを消しなさい。 *

 

さとう三千魚

 
 

I’ve been walking

morning
along the river

I walked to the estuary

I met stray cats

the sun was rising high above the peninsula

on the west mountains
there was a big white cloud

for tangerines on the windowsill

yet
white-eyes have not come

to the sign
because they fly away

be quiet
waiting

Turn off the radio *

 
 

歩いてきた


川沿いを

河口まで歩いてきた

ノラたちに
会った

半島の上に朝日は高く昇っていた

西の山の上に
白い大きな雲がいた

窓辺の蜜柑に

まだ
メジロたちはきていない

気配に
飛び去ってしまうから

静かに
待っている

ラジオを消しなさい *

 

 

* twitterの「楽しい例文」さんから引用させていただきました.

 

 

 

#poetry #no poetry,no life