爽生ハム

 

 

街に付箋を残す
1人であいさつへ行こうとする
落し物をする
そんなことないよ
非生産になる
陸はないよ

地圧の凹みを水の魔物とする
移動する態度
私はココになる

本質の肉づき
転がる煮物、ハダシの利点

その物語の顔しかないのは…

…どうなの
まあるい
初動  移動
かえって規則正しい
モーションがふとした落とし穴にはまりまして、息の逃げ口に文化が入場、いや末端が動く。
矢印は宙域だと思われる。
しばらく待っても
実存しないジャージとジャージのあいま、セットアップと違う、
衣服と衣服の切れ目。そこに
遅遅の藻のミルフィーユ

客の目も物語に容れてくりゃよ。
即答しても過去だって、

かまえる事なく、よそおう事なく
流通されてきた食材のように
体重移動する
不具合で安心な方へ道路を敷く
と、そこかしこに
そこにしか成しえない
数えきれないほどの林檎。
私の変容でしかなかった。
底でしかない …どうなの

移住地から来た衣服の袖についた鈴の音色を、名づけるのには時間がかかった。
→鈴 こんなにも空洞が重要なのかと、思うと、

私も真空にはモザンビークまでもすら容れてしまう
切れ目にイク

大人の嗜み。片方が矢を放つ
意識を分散せずに平等の暴発で、高め続ける。片方に矢が刺さる

そっか…

後方に手は伸びづらいから、いつも反動とかに頼ってしまう
けどさ、目を体の筋通り
ってのは背骨通りに

乗せて上を向けば
後方が出現した気がしないかい
目線が邪魔になるので、
フラットにしてみました。

場所が違うのなら
前方と後方をなくしてみました
後退りする時、
君は内股だねと言われないように
大丈夫です。今のつま先は
瞬きしてませんよ

 

 

 

テレビウンチャラ嫌だねえ、饅頭の半分くれた人がいいっす。

 

鈴木志郎康

 

 

ドッ、
ドッ、
ドッ、
ドッ、
ドッ。
頰を強張らせて、
手振りを揃えて、
連中は通り過ぎて、
行ったっす。
嫌だねえ。

テレビ、
テレビ、
ウンチャラ。

ゾロペタゾロ、
ゾロゾロペタペタ、
ゾロ。
アイロンの効いた、
同じ服の女の子たち、
ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ、
通り過ぎて、
行ったっす。
気に入らねえっす、
嫌だねえ。

テレビ、
テレビ、
ウンチャラ。

今じゃ、俺っち、
テレビばっかで生きてるっす。
テレビの外のこっちじゃ、
俺っちの、
傍に来て、
饅頭の、
半分をくれた人が、
いいっす。

トッ、
トッ、
トッ、
トッと来たっす。

 

 

 

永遠の綿畑 ── evergreen

 

今井義行

 

 

睡眠導入剤を 飲んでいても
午前三時には ベッドを出る
わたしのこころはいつだって
弾んでいます 起毛の速さで

明かりは灯さないのがすきだ
手探りの感触に艶があるから

「早朝覚醒」は異状じゃない
ってことを実証していくんだ

交感神経の昂揚── それは
希望の時刻を待ち侘びる自然

健康を示唆する、と言われる
≪既定値≫ それは

此処では 「真実」 ではない

睡眠導入剤には 種が含まれている
麺麭が 発酵するような 種が──・・・・・

夜明け遥か黒光り繁茂する場
鎮まりかえった 部屋の膜間
此処では 脳髄が 転倒をする
意味なんて捻ってしまうんだ

わたしは、わたしの日常だけは、カスタマイズするんだ
それは普遍に関わっていること「人」人にはそれぞれの
呼吸の仕方 そのときの姿 輪郭が在るんだよってこと

連綿とつづく 「早朝覚醒」、それは 永遠の綿畑 ──
地平線まで輝く 常緑の低木 綿の樹々に 季節が廻り
渇いたその種から現れた無限のふわふわまるい純白の綿
綿畑は白で埋るというが脳内跨ぎで緑の綿毛の球面地帯

わたしが 蒲団に居た 短い眠りの あいだに
六畳間の畳は 常緑の綿畑の 球面宇宙に 覆われ 生育していた幸福
永遠の、綿畑 ── evergreen

わたしは 球面の感触を 頼りにして
べんじょへ行って べんは排泄せずに
とても 浅かった「早朝の夢」の 結石を捨てる
それから ──・・・・・
コンピュータを起動
闇が、ひかるひかる
コンピュータの画面
に陽射しが踊ってる

画面のひかりが 綿になって へやに 噴きこぼれる

永遠の綿畑 常緑の その空間の 彼方まで 入っていくよ ── evergreen

「言葉」を さまざまに
置いては崩し また
置いては崩し かたちを創っていくのです

永遠の綿畑 常緑の綿の 球面宇宙を 遊泳しながら 言葉を 摘むんだ

「早朝覚醒」は 言葉織る 時間なんだ
キーを叩き変換し 初めて出会う物達
その場こそ 覚醒なのだ
わたしの 今日 それは
その時間を満喫しようと
する事から異化されます

「早朝覚醒」の 温みを
朝の御飯にすることから

「いただきます」 摘んだ言葉 ひとつひとつを 溶かした バターで 味わう

≪プログラムの関連付け≫という 言葉が しばしば 画面に表示されています

無意識の関連付けが 詩に
意識化の関連付けが 詩に
対象化の距離感覚が 詩に
錆びた技術の駆逐が 詩に

そして 朝陽の 地上に 立たないと
わたしは 今日に現れない
わたしは 在っていこうとして
無心に 画面と抱き合う
書き直して、 読み直して、
ことばを 保存しては
それを繰り返して、やっと
落ち着ちいて 平和的な息をもらす

ほうら・・・・・・・・・・・・・・・・・・
衛星の高さからイメージしてみよう
わたしは居るが 居ないにひとしい
居ないにひとしいが
接近していくと わたしは居るのだ
地上には ≪ Ashes To Ashes ! ≫
なんて曲もあり人間流砂はうごめく

灰から灰 輝いている、輝いている、*一部歌詞対訳
灰から蜜 輝いている、輝いている、

あたらしい生が いつも、生きたいと願ってる

思い出されてくるのだった──・・・・
いまは 梅の枝は盛り
散歩道の 一軒の住宅の 塀に
鉢物の 白梅が飾られていた

顔を 近づけ 匂いを かいだ

わたしは
その白梅の一枝を 手折りはしなかった
けれど・・・・・・・・
網膜に それを
保存していって

瞬間保存した儘
忘れない内に書いておこうと
心から 想った

それは 春めいた 慎ましさ だったので

忘れない内に 残像の言葉
詩に 書いて おきたいと
言葉、書いて おきたいと

「し」は しあわせの「し」
「し」は しあわせの「し」

「詩」は しあわせの「し」

そんな想いがあるから 永遠の綿畑に ごろごろ転がって
パジャマが 真みどりの 毛玉だらけに なったって
再起動して、 再起動して、 再起動して、
セカイ ノ 画面からは 欧州からの 報せもおとずれる

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【 2016 0110 】 英国の伝説的なシンガー
D・ボウイが 急逝したんだって、ね
米国では 必ずしも大きな成功をした訳では
ないのに 遺作は全米チャート 初登場一位
「駄目になった」と 散々に扱われてたのに
購買層 って、 げんきん だね
突然死 って、人を 神格化する

わたしは D・ボウイの未発表の音は聴きたい
死の前までに幾つものテイクがあっただろう

未発表の音は アレンジで捏ねられず
簡素な試行  或いは照笑い
或いは 苦笑いのもとに
囁きのような ナチュラルなヴォイシング
が 潜んでいることが多いんだ
商品にはなれなかったものを聴きたいのだ

ひっそり暮してるだけさ
淡々と 情熱を持続させ
「詩」を 立たせないと
わたしは日々を失うから

午前8時を 回った──

六畳間がいよいよ光っていって わたしはカーテン、窓を開けた
真冬の空は 壮大な円弧を描き 蒼の高速道路が 多層の螺旋を
重ねていた── あの路からは 何処へでも行けるのではないか

ヒトデのかたちをした 飛行機が 空をわたっていった
雲の海を まっすぐに 通り過ぎていった

ああ、もう一度だけ 蒼の高速道路に 乗って 湘南に還りたい
煩雑なTOKYOと 隣接していながら 海風にのんびり育てられた
わたしは。窓から 高速道路を 流している タクシーへ 合図した

≪ SYONANまで──≫

四季の折々に 固まりだった
わたしの 核家族は
神奈川県 藤沢市を基点に
しろい 細糸を伸ばす
国道路線図のように
散り散りになっていったんだ

母は藤沢市・丘陵の団地
亡父は豊島区の墓地のなか
妹は名古屋県・知多半島寄りの
自動車の 製造業圏
わたしは 江戸川区
荒川の傍 平井のアパート

みんな ばらばらに
かろうじて 細い糸で
霊的な通信を取り合っている
≪元気にしてる ? ≫
手をのばし揺らしていながら
≪家族の結び目って
それは本当に絆 ? ≫

わたしは独り者だけれど
それもまた核家族となるのか
独りの 核だから
抑えるものはなにも無い
資産を残す必要など無い
形見を残す必要など無い
墓石を残す必要など無い

家族、その子孫って なんだろう 蒼の高速道路、多層の螺旋、走って、走って・・・・・、

着いた その街は 波の寄せる 湘南、ではなかった
その街は・・・・・・ 球面宇宙に 覆われた 真鶴だった

真鶴の海のいろは 湘南の海のいろより 濃い
同じ相模湾に面していても 西ほど漁場が匂う

その街には わたしの 友人夫婦が住んでおり
彼は真鶴から東海道線で横浜銀行本店に勤務
長男23歳と長女19歳の 4人で暮らしていた

≪永井くん、急だけど 会ってみたくなった≫

何ひとつ 約束してなかったので 電話して
わたしは 彼らの自宅へ行き30年振りに会い
お茶を飲み「時間て速いな」等お喋りをした

友人夫妻は一様にわたしにこのような事を語った
「長男は細かなことを気にする子で まぁ緻密、
長女はおおらかすぎるほどの子で まぁ大胆」
わたしが「健康な子どもたちに恵まれたね」と
言うと 友人夫妻は一様に首を横に振るのだった

友人夫妻が言うには──「ほんとうは
長男の気質と長女の気質を足して2で割ったら
ちょうど良かったんじゃないかと思う」
「あるいは長男が女で長女が男に生まれて
きた方がうまく生きていかれるんじゃないか」

「そんなことはないんじゃない」とわたしは
言った たしかにわたしも長男で妹が居り
友人夫妻と同じようなことを親から何度も言われた
性格をくらべてみれば不可解という話ではないが

≪すきにヒトを造って 更に何をもとめる?≫

≪わたしからは まあまあの 人生と思える≫
と いうのが わたしの 言い分だった ──

≪その子たち は 愛の結晶、では ないの?≫

それから わたしは タクシーで バスターミナルに 向かった 蒼の高速道路、
多層の螺旋、走って、走って・・・・・、

バスターミナル のサンルーフから
あおぐと
2015の 夏のなごりの
空の
青さの
ちから
わたしは バスに乗って

降りた処は

── ここは、湘南か・・・・・?

バスターミナルの
ベンチに
数人の
少女たちが
きれいにならんですわっていた

── 人魚・・・・
── 人魚・・・・
── 人魚・・・・

蒼空と人魚たちの絵すがたが
そこには
おおきく
ひろがっていたのだった

舗道のカーヴミラーに映る
煉瓦の階段
辛子色の 落ちた葉の群れ
鳥たちの かわす
声音が成す テトラポッド

坂道をしたまで 降り行く
木綿の 衣服 の わたし

木綿・・・・ 永遠の綿畑 ── evergreen で

パチンコ店「パラッツオ」
ボード、 載せた VOLVO

わたしは 各駅停車の 小田急線に 乗りこんだ

「藤沢」までの 車窓の風景を ぼうと眺めてた
風の中 雲のような みどりの綿が 舞っていた

駅前の 南口の 周辺は
年に 一度の 市民祭り
デッキから見わたす市街
あふれかえる 市民たち

軒をつらねているテント
ステージでは
10代の女の子達のダンス
噴水の 隣りでは
路上のギターの ライヴ
信州からの出店には
冬映え、という名の林檎
地元産の お土産屋には
ふくろづめの
「しらすラスク」
がいっぱい積まれていた

ふふふふっ。 ≪ SYONANまで≫ 来てしまった
湘南 蒼浜には しぶきが 泡立っているだろう

けれど、老母居る筈の団地は 解体工事中だった

 

 

 

殺生

 

佐々木 眞

 

 

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虫を殺し、花を殺し、蝶を殺し、鳥を殺し、
いままでずいぶん殺生してきたな。
さすがに人は殺さなかったつもりだけど、
我知らず、ひとりやふたりはあやめてきたのかもしれないな。

恐ろしや、恐ろしや、あな恐ろしや、恐ろしや。

虫や花や蝶や鳥は、殺したくて殺した訳ではないけれど、
蛇だけは、おぞましくて虫唾が走り、
無我夢中で見付け次第叩き殺してきたな。
といっても全部で五匹は超えていないだろう。

だけどマムシに出くわしたときには
殺すどころか、おっかけられて
ほうほうのていで逃げ出したものだ。
マムシって、宙を飛びながらシュツと襲ってくるから恐ろしい。

恐ろしや、恐ろしや、あな恐ろしや、恐ろしや。

ところが上には上があるもので、
茂木のハローウッズで活動している崎野隆一郎さんは、
マムシを見付け次第とっ捕まえて、
皮を剥いでね、焼いてね、ムシャムシャ喰っちまうそうだ。

田舎の旧家にも時々巨大な青大将が出現して、
義母にその始末を頼まれた心優しい父はとうとう殺しきれず、
段ボールに入れて自転車に積んで、由良川に捨てに行ったら
途中でそいつが背中で長い鎌首をもたげて困ったそうだ。

恐ろしや、恐ろしや、あな恐ろしや、恐ろしや。

それにしても殺生をした後は、後味が悪い。
化けて出るんじゃないかと思う時もあったなあ。
化けて出てくるぶんには、たいして怖くないけど、
地獄に落とされたら、嫌だなあ。

私はいちおう無神論者で、この世はあってもあの世はなく
天国も地獄もないと考えているのだけれど、
もしも、もしも、万が一にも地獄があって、
閻魔さまに「お前そっちへ行け」と命じられたら、どうしよう。

恐ろしや、恐ろしや、あな恐ろしや、恐ろしや。

太宰治は子守のタケに雲祥寺の「十王曼荼羅」を見せられ、
地獄の恐ろしさに夜な夜なうなされたそうだが、
この世の地獄が、あの世の地獄におさおさ劣るものではないとは
まだその時は、知らなんだ。

ああ、知らなんだ、知らなんだ。
幸か不幸か、知らなんだ。
あの世もこの世も地獄とは、
まだその時は、知らなんだ。

恐ろしや、恐ろしや、あな恐ろしや、恐ろしや。

 

 

 

hole 穴

 

母の
腹から

産まれた

憶えてないが

空白から
産まれたのではない

母は
絹といった

一人娘で

兄は
沖縄の戦争で死んだから

苦労もした
水をはった田圃に

屈んだ母の
姿を憶えている

空白から産まれた
のではないが

そこに
帰る

笑っている

 

 

 

生命の跳躍~シャルル・ミュンシュの音楽

音楽の慰め 第2回

 

佐々木 眞

 

 

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シャルル・ミュンシュ(1891-1968)は、大好きな指揮者です。
長くボストン交響楽団の音楽監督を務め、彼の生地ゆかりの独仏両国の音楽にいずれも堪能で、明晰かつ情熱的な演奏を後世に遺してくれました。

彼がフランス国立放送響と録れたドビュッシーやベルリオーズ、Memories盤で聴くボストン響とのベートーヴェンの交響曲全集やモーツァルト、ブルックナーの交響曲第7番などのライヴ演奏は、いずれも素晴らしい。
それは生命の跳躍と輝きがあるからです。

フランス音楽、ことにベルリオーズの「幻想交響曲」では高い声望を勝ち得ているミュンシュですが、1967年11月14日パリ管弦楽団の音楽監督就任お披露目コンサートの実況録音に聴くドビュッシーの「海」はもっと見事な演奏で、安物のスピーカーから流れる第3曲のトランペットの強奏を耳にしながら、ドビュッシーがインスピレーションを得たという葛飾北斎の「富嶽三十六景・神奈川沖裏」の映像が忽然と脳裏に出現したのには我ながら驚きました。

また仏のレーベルAUVIDIS VALOOIS のV4826には、1963年6月にフランス国立管弦楽団とリスボンで行ったライヴ演奏が全8枚に収められています。

お得意のフランス音楽のほか、ブラームスの交響曲2番、シューマンの4番、ベートヴェンの4番と7番、フランクの交響曲なども収められているのですが、いずれも超の字がつく名演で、この人がバーンスタインなぞ及びもつかない生命力にあふれる音楽をやった大指揮者であったことを雄弁に物語っています。

マーラーにも思いがけない名盤があります。例えば歌曲「さすらう若者の歌」と「亡き子をしのぶ歌」では、カナダの歌手モーリン・フォレスターの沈湎たる歌唱が深々と心に響きます。

いまここで音楽を創造しながら、「ああ生きていて良かった!」という切実な思い、光彩陸離たる生命の輝き、そして己の殻をぶち破って、どこかここではない彼方へ飛びだそうとする“命懸けの豪胆さ”が、私たちの心をひしひしと打つのです。

――『生涯の終わりごろ、ブラームスが目も眩むほどの速さでヴァイオリン協奏曲を振りはじめた。そこでクライスラーが中途でやめて抗議すると、ブラームスは「仕方がないじゃないか、きみ、今日は私の脈拍が、昔より速く打っているのだ!」と言った。』

そんな興味深いエピソードを、ミュンシュはその著書「指揮者という仕事」(福田達夫訳)の中で紹介していますが、ここでじつに印象的な風貌を垣間見せているブラームスの姿が、私にはどうしてもミュンシュその人に重なってしまうのです。

 

 

*追記

ミュンシュの音楽の素晴らしさを知って頂くためのいちばんの近道。それはYouTubeの「人気の動画シャルル・ミュンシュ」というトピックをのぞいてみることです。

百文は一見に如かず。そこにはボストン交響楽団を中心とした長短様々なライヴ演奏の動画が陸続と展開されており、彼の卓越した指揮ぶりに信服しているオケの面々の音楽する歓びと、これを目の当たりにした聴衆の感激が生々しく伝わってきます。

 

 

 

姿

 

爽生ハム

 

 

3月13日
灯りのアパートメントは四階ぐらいかな、それは電車から見たから地上との距離感がいまいち掴みきれない、目の位置だけが高く灯った。
すれちがった私とは別の人の方へ
重心がかたむくはずだったのに
歩みを止めれない。

体がおぼえだした
このステップを
指令してみた
右に半歩左に半歩これ続ける
体が空くまで
意識して命令する
独唱をするように天をみあげてから
最近 うーわオレンジ食べてないな

あやとさわげ。言葉のあやと
身崩れ。なれなれ
この果てを身一つ
広げる意識で、かくまるな
アウトラインに電気が走る
外科医のメスの先に鋭利な地割れ
手の先、道具の先、電流の先
モスグリーンの
じめったいケルト民族の肩に
小鳩がとまる
かじかむ舌先のありかは口内
本当は舌が空中に
ほうりだされて、空気
舐めている動物としての粒子
先に水を舐めにいく
舌で牛を飼う
時間を飼う
住家を飼う、許されるなら
貧困で質素な自由の隣国に
生まれなかったバージョンの私と
現存する不安げな 渋谷着いたよ
今どこ?

私の健気さには
来年はもうない。久しく宇宙を
調べてない
石油をご飯にかけ、高速を突っ切る姿はバイク城の王宮
頼りなくなったとか言わないでほしいよ。
毎回頼りなくなりにいっている
ピストンしない寸止めに
未来感はないさ、誠実に困惑する輪っかにはめにいく。この体は
筋力が足りないか
筋肉の嘔吐が伝わらないか
背骨が見えないのか、もしかして
もしくは
人体の効果は
衣服からはじまる施術を飼いならした結果なのかい。チャンス
敵陣が観客に徹している、マジ
ポンプ式の筋肉で人を押すゾ。
圧縮しようよ人を、手をひっこめて胸のあたりを意識する、胸に身震いする黒い丸を飼う
照らされた側から暗闇は見えない
身体よどうか代理してくれてもいいんだよ。って言った
わざと謙遜を破って想像に入る
カラダもいらだち
自慢げに大胆になりつつ
目撃談として、ひっぱりあう
動いてないカラダを
人の爪痕や鼻息に吹きかける。
念とか禅のたぐい?木魚叩きたい
叩いてるように見えてるよっ
それとも愛情かい、
愛でる浮遊で体圧をあげる
気持ちいいとこに落とすと
オン枠にはまる。

寄り道した末に旅した
末の部分がとても長い道のりだったのだよね。
目的に没入した体をよく憶えてる
スライドして帰ってきた
幾つあっても代理の変容でしかなかった。非常に幸せ
可能性の膀胱が光り、それは
本人の素材に景色が、うん?

気色だったか、燕尾のよな尻が
左右で分かれていた。
モノクロとカラーのように温度調節がむずかしい境地に達していた
色もつけれるし
左手の おーいお茶 あったかくて
色もおとせるし
目に見える色と意識している色を共に裏切ることもできる。
感動的にチューニングしていく様が入れ物という花壇を剥脱する気もする。
花壇っていうのか、この区域は
勝手に名づけ過ぎ
じゃあ、花壇します。
私は花壇。今は雲しか見えない
本当に雲、くも く も
白いとグレイと曲線ざ
花壇の裏の広場で清志郎が歌ってる。清志郎人体。彼は人間
姿 スーサイド

こういう時に連結した関節に動力を感じまくる。
スポーツではないハンガーにかかったままの身体、炭酸水にしおれる塵です吸いこみ膨らんだ毛壷よ

忘れていた。
言葉だったね えーっと

ギャスパー・ノエを見たんだ
朝になると文字が死んでる、ぎくっ振付から降りる。再度振付に入るまでの期間でさえも体は裏切らない、でも結構死んでる、短く振付に滅入る、同じように全てをやる。同等にぎくっ
万国のステップ万国の行進、万国旗いずれもコンティニューして
自分の癖に戻そっかな
スーツに入ります、川にも入ります

 

 

 

女の土左衛門さんにそこいらの草の花を投げたっす

 

鈴木志郎康

 

 

ヒイ、
ヒイ、
ヒイ、
ピーと鳴らない
口笛吹いて、
土手を歩いていたら、
川面に、
ボロ服着た人が浮かんでいたっす。
女の水死体が浮かんでたっす。
そこいらの草の花を取って、
その上に投げたら、
一つだけ、
当たったっすね。
ヒイ、
ヒイ。

教室で、
国語の時間に、
土左衛門の
お姉ちゃんはなんで死んじゃったんだろうって、
お母ちゃんに聞いたら、
苦しいことがあったからよって、
言ってましたって、
作文に書いたら、
女先生は俺っちの頭に、
手を置いて、
黙って、
顔を左右に、
動かしたっす。
ヒイ、
ヒーチョト、
ヒイ、
ヒイ。

昔々の、
ピーと鳴らない、
口笛だったんだす。
ピー、
ピー。