船について *

 

さとう三千魚

 
 

雨になる朝
川沿いを河口まで歩いた

遠い国で
戦争は続いている

どんよりとした空の

下には
流浪する人たちがいる

わたしは
川沿いを歩いていった

売ってしまったけど

かつて
小舟を持っていた

小さな
エンジンを積んで

青暗い
朝の海に出ていった

凪いだ海のおもての
水面の

ゆらゆらと揺れて朝陽に輝いた

魚は
釣れなかった

釣れたこともあった

なにを釣ろうとしていたのかな
糸を垂らしていたな

午後には風がでて飛沫をあげて海は波立つだろう

 
 

* 高橋悠治のCD「サティ・ピアノ曲集 02 諧謔の時代」”自動描写” より

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

息してた

 

辻 和人

 
 

運ばれてきた
2台のワゴンのプラスチックごし
バクバクッ
真っ赤な手足を火のように投げ出して暴れる者
白い布に包まれたままヒクヒク微動している者
こかずとんだ
コミヤミヤだ
昨日妻ミヤミヤから帝王切開の日程が早まって明日になった、と電話があった
コロナ禍だから立ち会えない
但し双子の赤ちゃんには新生児保育室に運ぶ途中の廊下で会える
そわそわ待機していたぼく、かずとん
呼び出されて
ばったり、その瞬間
バクバクッ
嬉しい、とかない
かわいい、とかない
生命体だ
しわくちゃに
白い皮脂震わせて
息してる
見つめて心臓バクバクッ痛くなる
「写真撮っていいですか」「ちょっとならいいですよ」
透明プラスチックに光が乱反射
不格好な写真が撮れた
「ではエレベーター来ましたのでまた後ほど」
慌ただしく運ばれていき
バクバクッ
バクバクッ
痛いッ
ぼくも息してるじゃないか
ぼくとぼくから分離した小さな者たち
薄暗い廊下でばったり邂逅した計3体
揃いも揃って
息してた

 

 

 

夢素描 23

 

西島一洋

 
 

嘘つき

 

小学校三年か四年の頃だと思う。10歳、1962年頃か。

家業はうどん屋だったので、うどん粉と小麦粉とメリケン粉は同じものだということは、当然のごとく知っていた。ある時、通学団で学校へ行く時か、家へ帰る時か忘れてしまったが、僕が皆に「うどん粉と小麦粉とメリケン粉は一緒だよ。」と言うと、こぞって「嘘つき。」と皆が言う。

皆は、うどん粉と小麦粉とメリケン粉は違うものだと思っていたのだ。僕が、何度も、強く主張すればするほど、「嘘つき。」の連呼は激しくなる。泣いた記憶はない。とてつもない理不尽さに怒りを感じて憤怒の極みになったが、暴れたり大声を出したりはしなかった。ただただ、歯を喰いしばって、耐えていた。

僕はどちらかと言うと、おどけ者で、皆を、驚かせたり、楽しませたり、よくしていた。突飛なことを言ったり、やったりしていた。イソップの狼少年のように普段から人が困るような嘘をついて、自分自身が喜んでいたわけではではなく、まあ、他の人のためにおどけていた。嘘のようなことを言ったりやったりして、でもそれは他愛のないことばかりで、皆もそれを分かっていて喜んでいた。と思う。多分。おそらく。

この時は、おどけたり、喜びそうなことを言ったりしたわけではない。ただ、当たり前のことを、さらっと言っただけだ。

これとは別の話だが、意図的に嘘をついたことはある。その時は、嘘をついたという感覚がなかった。小学校一年の時だから、7歳、1960年か、う?計算違うか?、まあ良い。

小学校一年だったことは、間違いない。というのは、伊勢湾台風のあった年だからだ。なぜ、はっきり覚えているかというと、名古屋の南の方で、水害で家を流されたりした人達が、僕の通っている小学校に避難してしばらく暮らしていたが、その避難所になった場所が、僕の学校の一年生の校舎だったからだ。一年生の校舎だけ、平屋で別棟だったから、使い勝手が良かったのだろう。

伊勢湾台風の直後、一年生の国語の作文の授業で、課題が「伊勢湾台風の思い出」というのがあった。思い出となるほどには、時間は経っておらず、まあ、今から考えると、ドギュメンタリーを書け、ということだったのだろう。小学校一年生という年齢にとっては、かなりきつい作業を要求されたとも思う。

あの時、つまり、伊勢湾台風の渦中、(僕の家は鶏小屋を解体して出てきた古材で作ったボロ屋だったが)瓦一枚も飛ばされず、ガラス一枚も割れなかった。たまたま、風上に大きな家があって、その建物の陰で助かったからだろう。名古屋市千種区と昭和区の境目のところだったが、僕の家以外の周辺は、かなりの被害状況で、屋根が丸ごと飛ばされた家もあった。全く被害のない家は皆無だったと思う。電信棒も倒れていたし、根こそぎ倒れている木もあった。

僕は、全く被害のない自分の家のことを、良かったと当然思うには思ったが、一方、変な心情が生じていて、悔しくもあった。台風一過の翌日、学校へ行くと、みんなが、瓦が飛んだ、ガラスが割れた、などなどと、自慢(?)し合っている。何の被害もなかったことが悔しかったのだ。おそらく、僕は、黙っていた。おどけ者で、しゃべり好きの少年が、無言でいるのは皆にとっても異様だっただろう。もしかしたら、よっぽどの被害があって、悲しみに打ちひしがれていると誤解されていたのかもしれない。この辺の心情は、変ではあるが、今でも理解できる。

作文で、僕は、嘘をついた。いや、正確には、作文というのは嘘を書いても良いと思っていたのだろう。小説という概念は、小学校一年生の僕には持ち合わせていなかったが、虚構を書いても良いと、勝手に思っていた。

内容で、はっきりと覚えているのは、自分の家の被害状況を克明に筆記したことだ。もちろん、被害は受けてないので、全て捏造であるが、捏造という概念すらも無い。

当時、台風が来るとなると、近所全員、全家屋が、戸板を材木で、窓や扉に、釘で打ちつけ、建物を防御した。あたりは、まるで学生運動で校舎に砦を作ったバリケードが連鎖するような風景である。あの、釘を打ち付ける響く音の記憶も濃厚だ。

僕の家も、南側の、扉や窓は、そのようにガンガンと材木を釘で打ちつけたが、何故か西側の一間ほどの引き戸だけは無防備だった。その引き戸の透明ガラス越しに、外の台風の様子が見れた。看板とか、瓦とかが、飛んでいるのも見える。雨もたたきつけていた。ずーっと、ずーっと、見ていた。

作文では、『その扉の透明ガラス越しに、外の様子を見ていると、飛んできた看板が、ガラスを割って家の中に飛び込んできた、僕達は咄嗟に逃げたので、怪我は無かったが、家の中はみずびたしになった、しかし、隣の家の陰になっていたからか、瓦一枚も飛ばなかったというのは、不幸中の幸いだった。』というようなことを書いた。そのように書けば、先生も含めて、みんなが感心すると思って書いたのだ。

案の定、その作文は、とても優れているということで、先生に褒められて、皆の前で自分で朗読させられた。とっても、自慢だったし、嘘をついている感覚は皆無だった。

蛇足かなあ。
もうひとつ、下駄箱のザラ板の話を思い出した。

小学校二年生。1961年。(ま、どうでもいいけど、僕の記憶の中では、そうなっている。1961が、反対から読んでも、1961、それに気が付いたのが小学校二年生の時、感動してみんなに言ったが、みんなは無関心だった記憶がある。)

で、小学校二年生の時、僕は、特に、美意識や道徳意識も無く、毎日、下駄箱あたりの掃除をしていた。掃除当番でも無い。そのような役割があったわけでも無い。ただ、なんとなく、毎日、掃除していた。

ホームルームか、なんか他の授業だったかは忘れた。先生が、「毎日、下駄箱の掃除をしている子がいます。素晴らしいですね。とっても良い行いです。皆もこういうこと見習って下さい。」と言った後、「やってる子は、手を挙げてください。」というので、僕は、勢いよく手を挙げた。僕は、褒められることを目的にやっていたことではないけれど、若干恥ずかしかったが、胸を張って「はい」と言って立ち上がった。

なんと、先生は、「こういう事は、黙ってやるから素晴らしいのです。人前で言うことではありません。正直に人前で言ってしまっては、駄目です。」と、言う。

僕は、手を挙げて、と言うから、素直に手を挙げたまでだった。その時、子供の時、すぐ反論はできなかったが、今から考えても、理不尽だ。

端的に言うと、僕は嘘つきは嫌いだし、嘘をつくのも嫌いだ。

 

 

 

現れについて 08

 

狩野雅之

 
 


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Description

 
わたしがそれに対して現れることによってのみそれは現れる。
しかしそこに在るものにわたしは直接触れることは出来ない。

FUJIFILM X-T2, FUJINON XF18-55mm F2.8-4 R LM OIS

Masayuki Kano