質感って奴

 

辻 和人

 
 

ぷるん
服を脱いだコミヤミヤだ
お風呂場の発砲スチロールの台の上で
ぷるんしている
軽く泣きそうになったのを宥めて
赤ちゃん用シャンプー頭に垂らし
髪の毛シャカシャカ
ちょっと不機嫌残る眉を宥めて
シャワーシャーシャー
お次は首から腕からお腹から足から
背中からお尻から
ぷるんぷるん
シャボン流れる
あんなに小さく生まれてきたのに
保育器の中でけぽっしてたのに
ぷるんぷるん、だ
お腹の皮押せば
ぷるん押し返される
ぶるんとお腹だ
おしっこしたばかりのお股に手を差し込んできれいきれいすると
肉厚の割れ目ぷるん揺れる
2000gで生まれてきたのに
今や5000g
1回50gのミルクがやっとだったのに
今や1回120g
洗い終わってゴム製お風呂に入れる
ざっぷん
ぷるん
いいなあ、赤ちゃんって
この質感だよ
栄養が詰まってる質感
ダイエットなんて知らない質感
それにひきかえ皮膚しわしわ
ぼくの体がいかに硬化してるかわかっちゃうね
質感にやられて
触って触って
もっと触りたい
抱っこして抱っこして
もっと抱っこしたい
目で見ただけじゃわからない
ぷるんぷるんの抵抗感
質感って奴には
力がある
何しろ抵抗してるんだからね
触れた指に対して
ぷるんぷるん
抵抗して逆らって
力がある
洗い場は好きじゃないけどお湯に浸かるのは大好きなコミヤミヤ
顰めてた眉ほどいて
手足とお腹をお湯の中に遊ばせてる
栄養詰まった二の腕が
お湯滴らせて
ぷるんぷるん
たまんない
やられちゃう
抵抗感だ
質感って奴

 

 

 

破調・イムジン河

 

南 椌椌

 
 


© kuukuu

 

真夜中3時半に目覚めてしまった
二度寝できないたちなので
イ・ランのイムジン河を聴いた
イ・ランのイムジン河はいいよ
ソウルで踊ったばかりのせつ子のひとこと
雪の積もるイムジン河のほとりで
イ・ランが、かそけく美しい声と手話で歌ってる
静かな映像の凛たるイ・ラン
はじめてこの歌が好きになった

半世紀のむかし、フォークルが歌った頃から
この歌に感じていた靄々が消えて
イムジン河がイムジン河として流れていた

2017年4月連翹の花も盛りを過ぎたころ
38度線近く軍の砲撃演習が時折響く
ムンサンに独居していた弟サンヨンと
イムジン河に沿って車を走らせた
大きな川にしては、水は清く、滔々と流れ
その流れの遠くないところが北の大地
ほとりに降りてイムジン河の水を掬った
4月の水はさほど冷たくはなく、柔らかかった

川べりの料理屋で鯰の鍋料理を食べた
古びた韓屋風の店を選んで入った
日本で鯰料理は食べたことがない
言葉少なに流れるイムジン河で砂や泥をかぶり
風采の上がらない鯰氏をどう料理するのか
たっぷりの芹、青菜とにんにくの効いた汁で
鯰の靄々を覆い隠しているような鍋
鍋は大きく、「あら」というほど高価だったが
やたら骨が多く名物のわりにそっけない味だった

いつもはよく喋る弟がさっきから黙っている
イムジン河の北に思いを馳せているのか
なぜかと思ったら、鯰の小骨が
喉に刺さったという可笑しな始末で
よくやるようにご飯をぐっと飲み込んだら
そのうち小骨は取れたようだった
小骨はとれたが靄々はとれなかった

イムジン河がたどった悲運の物語はよく知られている
心に響くまっすぐな言葉、メロディも抒情はるか
万感こめて歌う歌手たちがいたが
僕が感じていた靄々、そういうことではなかった
僕にはさわれるようで、さわれない詩情
イ・ランは声と手話でさわっていた
イムジン河 水清く 滔々と流れていた

  私が彼らを愛してると言いはじめた時から
  人々はおかしなものを褒めはじめた
イ・ランの抑えながらストレート語る歌に虚を突かれた
「世界中の人々が私を憎みはじめた」
イ・ランの歌にはいつもチェリストの伴奏がつき
そのチェリストはソウルの友人の友だちであり
何曲か聴き、気がつくと外は明るくなっていた

いつもの朝の食事をしてせつ子がでかけたので
思い立ってu-nextで50年ぶりに
浦山桐郎の『キューポラのある街』を見た
60年代の北朝鮮帰還運動が伏線になって
映画のなかでチョーセン、チョーセンと連呼されるのが
次元を超えてなぜか新鮮だった
キューポラのある街が公開される数年前、小学1年生のころか
父親に連れられて埼玉の朝鮮部落に行ったことがあった
川口だったのだろうか、キムチの匂いと道沿いに積まれた塵芥
野放しの子豚が走り回り、土埃が舞い
座り込んで働くオモニ以外はあまり人影もなく
新宿落合の我が家もそこそこ貧しかったが
侘びしく立ち並ぶバラックは、時が停まった異界のようで
胸がしずかに動悸を打っていた
キューポラの煙突は残念ながら記憶にない

映画のモノクロ映像と少年たちの生態は
匂いがないせいかトリュフォーのように美しい
頑固な鋳物職人東野英治郎はチョーセンを嫌い
娘のジュンはチョーセンの娘ヨシエの友である
ジュンを演じた15歳の吉永小百合には魂を抜かれた
不良たちに犯されそうになったジュンが
公園の蛇口に唇つけて思い切り洗う場面
小百合15歳にして畢生の演技
ジュンの弟の市川好郎はこれも天才子役
ヨシエの弟で天才の子分サンキチが
北に帰還するくだりには泣けた

さてこんな日だから気を取り直して
またイ・ランのイムジン河を聴いて
本棚からイ・ランの小説『アヒル命名会議』をだした
訳者の斎藤真理子さんから送られて
まだ読んでなかったのだ
とても良き日になりそうだ

 

© kuukuu

 

 

 

AUTUMN IN TATESHINA

 

狩野雅之

 
 


231013_DSC1496-3
Nikon D810, Nikon AF-S NIKKOR 24-120mm F4G ED VR

 

Description

 

見るものと見られるものの関係、見えるものと見えないものとの関係を考えながら日々写真を撮っています。たしかなのは見るという行為が自発的であり能動的であるということです。見えるといったときでさえ(受動的に)それがわたしの知覚に飛び込んできたわけではなく私の方から(能動的に)見るということを行っているのです。わたしにはそんなふうに思えてならないのです。

 
Masayuki Kano
 

 

 

英語は最後の最後まで主要言語である

 

工藤冬里

 
 

バットマンのような菱の実が丘々に散開している
映像は半導体に関する到着予想ナビのようなもので、小津は吸収され茶の湯の日本はもうない。(反日どころの騒ぎではない。)
どのショットにも日本消滅後に撮られたという刷り込みが確認される
英語は最後の最後まで主要言語である
そんな風にして仕切り直しの猶予みたいなものの最期がやって来た
食客の「今はここで暫く遊ばしてもらってるんだ」というクリシェの後に必ず出入りがあるように
四駆の車窓の風景は必ずスッパリバッサリ斬られる
接種済みの各兵士にひとつ張り付いていたロケット弾が頭頂に触れる
それが菱の実の形をしている

国家国家国家スパニエルと騒いでいるうちに御輿から振り落とされて肋を折る者は昔から男女問わず切りたての晒木綿をりゅうと巻いていて、それに血が滲むのだった
彼らは国家国家国家スパニエルと騒ぎ立てる静寂を予表していたのだ
騒ぎ立てる静寂は溝(ドブ)の上澄みの透明に似てエメラルドの暖かみはない

国家はいつのまにか主語ではなくなっていった
主客で「遊ばしてもらって」いたのだ
元々が雑魚なものだから、人称沙汰があれば主語と言えど簡単に殺される
映画はarkだからだ
その上の静寂をこそ振り落とすべきなのだが
担ぐ衆にミキを与えて反シオニストは身を隠してきた
酒を造る者たちはそれで儲けた

主語国家の目眩しのラッセラ製薬一世風靡YouTuber換骨囃子が大後悔後のスパニエル並に縮小するだろう
かといってUNはTVパーソナリティにはなり得ない
それは海上タクシーのようなものだ
Take me to the other side of the island!
あるいは島に続く浅瀬を渡る御輿そのものとなったフェリー
主語のpseudo引き潮ニストはハマチカマス養殖業者でもあり
投げ落とされた主語としての準国家汎国家の演出に携わる

御輿は正しくなさの半面にすぎず、深煎り150ccと決めた正しさの数量で言えば四分の一しかない
正しい御輿の上にも正しくない御輿の上にも平等に娼婦が乗る
空飛ぶゼカリヤ計量カップの中に坐る邪悪のように

 

 

 

#poetry #rock musician

姨捨にて

 

さとう三千魚

 
 

いつだったか

何年か
前だったか

根石さんと
姨捨の駅のホームから

千曲川の光るのを見たのだったか

根石さんは
母を

山の民だと
言ったのだったか

根石さんは

見ていると
詩だと

思える

山の人であり
詩人なんだと思える

なにも望んでいない
なにも望まない

あることのなかに
いる

いることのなかにある

千曲川が光っていたな
千曲川が流れていたな

その山は

姥捨ではなく
姨捨だった *

愛しいものたちを捨てたのだったろう

 
 

* 千曲市に実在するのは姥捨山ではなく姨捨(おばすて)山でした

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

長屋正月

 

廿楽順治

 
 

なんどだって
われわれは丸くあつまってしまうのだ

(うたをうたいだすやつもいて)

泣いている船長の老人
それがどうやらみんなの親らしい

ぼくは中上健次の『岬』を読んでいるんです

とつぜんへんなことをいう少年
麩菓子の箱が積まれてある部屋であった

ののしりあう発音が
どれも水のなかでのようにくぐもっている

(どうしてそこにケロヨンがいるのだろう)

死んでうすくなったその丸に
こんどはわたしがすわって

あきることなく
さむい夜に出る船の話をくりかえす