佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その2

「祖父佐々木小太郎伝」第2話 養蚕教師
 

佐々木 眞

 
 

 

私の家は綾部の目抜き通りで履物屋を営み、郊外に桑園を持ち、当時流行の養蚕もやっていた。そんな関係で郡是の創立者、地方養蚕界の元締、波多野鶴吉翁とは懇意で、私も子供の時から目をかけてもらっていた。

私が小学校を出て16の時、波多野さんは自分が所長をしている京都府高等養蚕伝習所(私の入所中、城丹蚕業講習所と改称)へ、私を入所させろと父に説き、「年齢が2つ足らんが、それはどんなにでもなるから」といって、しきりに勧められるので、入所することにした。

生徒はたいてい20がっこう、26、7の人もいて、私一人がまだ子供だった。卒業して一ㇳ春綾部町の養蚕巡回教師をしたが、そろばんが上手になるというので、その頃地租改正で忙しい税務署につとめ、十八の年にはそのそろばんを買われて郡是(現在の「グンゼ」)に入り、事務所につとめた。

その頃(明治三十四、五年)綾部地方は、個人が勝手に少額の切手を出して貨幣同様に流通させていた。郡是もこれを発行し、私は切手作りで忙しかった。二十一の徴兵検査で肺浸潤だといわれたので、父が心配して、私は郡是をよした。郡是在勤中も、春の養蚕期は会社も休みなので、毎年巡回教師に出た。十九の時佐賀村の小貝へ行った。その年晩霜でひどい桑不足となり、由良川がまっ白くなるほど誰もかも蚕を流した。

私は蚕は捨てさせず、急いで金つもりをさせて綾部に帰り、父を説いて桑を買わせた。こんなことにかけたら父はうまいもので、四方に走って上手に桑を買いあさり、荷車に積んでドンドン小貝に運び込み、小貝は一疋も蚕を捨てず、おまけに上作の繭高と来て、養蚕家はホクホクしてよろこび、私も思わぬ手柄を立てて、「若いけんどなかなかやるもんじゃのお」ということになった。

翌年は波多野さんの推薦で西原へ行った。西原というところは、どういうものか毎年蚕が不作で、上野源吉という伝習所の先生までした熟練第一の教師も失敗し、おまけになけなしの繭をゴッソリ糸屋に買い倒されて弱りきっていた。

ことし私がしくじったら、波多野さんにも済まんし、西原をいよいよ貧困に陥れてしまう。当時は日露戦争の真っ最中、私が兵隊にとられていたら、今戦争に行っている時だ。「よし!戦争に行ったつもりで命懸けでやろう!」と私は心に誓った。

毎日城丹へ行って見学し、先生にも尋ねて研究し、最善を尽くした。私はこの頃の温暖育の失敗の多いことから、いろいろ考えた挙句、給温のため一つの爐に使う燃料を二分して二つの爐で焚き、廊下にも火鉢をおくようにして、温度の調整と均一化をはかった。

これがたしかによかったとみえて、見事に成功し、上作をとった。あと二年続けて西原へ行き、都合三年毎年上作をとったので、疲弊しきっていた西原も完全に立ち直り、西原の農家に今まで見ることのできなかったすがすがしい畳敷の間ができ、柱には文明開化のさきがけの掛け時計が時を刻んでいる、という生活風景が見られるようになった。

その頃よく養蚕集談会が開かれ、その道の大家連中が来て指導するのであった。私は西原で体験した「修正温暖育」といったようなものを提げて、大家連中の説く定石的飼育法を机上論として排撃し、青二才ながらおめず臆せずやり合って、大家連中をタジタジとさせたもので、同じ仲間でその頃のことをよく知っている梅垣良之助君や出野新太郎君などの旧友と昔話をすると、「君は若い時から、一ッ風変わった鼻息の荒い男だった」といわれるのである。

明治42年にはやはり波多野さんの推薦で、はるばる愛媛県に行くことになった。愛媛県は古くからの特産物である藍が、舶来の化学染料に押されてダメになってしまったので、これに代わるものとして藍畑に替えて養蚕を奨励したのであるが、それがさっぱりうまく行かず、連年失敗で、県の養蚕技師で綾部出身の西村彌吉氏がすっかりてこずって、養蚕先進地で、ことに最近盛名並ぶものなき自分の郷里京都府に救いを求め、技術者の派遣を乞うたのである。

波多野さんのおめがねで五、六人行った中で、私が最年少である。おまけに行ったところは周桑郡庄内村といって、村長青野岩平氏は蚕業熱心家で、県会議長もしているという、声望並びなき人である。その庄内村の養蚕が連年失敗続きで、ことしここをうまくやらなかったら、愛媛県蚕業の前途も危ういということを、西村氏からコンンコンと聞かされたのである。私は京都府蚕糸業の名誉にかけて、愛媛県蚕業の危機を救わねば男がたたん、ということになってしまった。

私は青野氏の家に泊めてもらった。青野氏は素封家で、私にあてがわれた室も、夜具布団ももったいないほどりっぱなものばかりであった。私はかねて波多野さんかに教えられた通り、枕には自分の手拭、掛け布団の襟には風呂敷をあてて寝た。

青野氏には凝った茶室があって、鐘を打って客を招き入れるような本式の茶席が設けられ、都度私も招かれた。さいわい私は、妹が茶の稽古をやっていた時、いつもお客様になっていたものだから、飲み方だけは心得ていた。おちつき払ってカタのごとくやって、恥はかかなかった。

青野氏は謡曲が好きだったが、それがすっかり下手のよこ好きで、同族の青野浩輔さんと毎晩のように奥座敷でうなるのだが、どっちもどっちで兄たりがたく弟たりがたく、聞いていても肩の凝るようなものだ。

私も謡曲をやると聞いて、すぐにその席に招かれ、強いられるがままに小謡を一番うたったら、「これはたいしたものだ」ということになって、蚕の先生は承知の上でやっとることだが、とうとう謡曲の先生に祭り上げられてしまった。

ところがご先方は観世、私は宝生、観世の謡本を見て宝生をうたうのを、観世の人がせっせと習うというおかしなことになってしまったのであるが、それでも何とかお相手をして、愉快にやったものだ。

こんなことから私は青野氏一門の人と親しくなり、信用もされた。青野氏は金もあり、羽振りは良し、そのかげで仕事をする私は樂だった。村の人たちも、よくいうことを聞いてくれたから、すべて思う通りにやれた。

県でつくってくれたという稚蚕飼育所で、共同飼育も好成績だったし、それを家々に持ち帰ってからは、私は昼夜を問わず家々を駆けまわって指導したので、最後までうまく行って一人の違作者もなく、庄内村はじまって以来の上繭を多収して、村の人は大よろこびだった。

私だけでなく京都府から行った教師のところは皆成績がよく、繭の鑑定にかけても県の技術者よりはるかに優れていたので、その方面にもひっぱり出され、京都府蚕業のために大いに気を吐いたものだ。繭は入札で売られ、庄内村の繭はその平均値が愛媛第一の最高値だった。

あとで聞いた話であるが、青野家の人が、「今まで入れ替わり立ち替わり養蚕の先生が来たが、皆相当の年配でヒゲなどはやして威張っていたが、人柄が下品で行儀が悪く、蚕飼いもさっぱりヘタクソで、一度もロクな繭のとれたことはなく、損ばかりさせられた。ところが今度京都から来た先生は、子供あがりの若造で、「これが何をやるか」とたよりなかったが、どうしてどうしてお行儀がよくて熱心で、謡曲も上手だし、お茶の心得もある。蚕飼いも、前の先生方とは全くちがって、上手にやってもらったから、みんなウンともうけさせてもらった」といっていたとのことだ。

それから特に所望されて、あと二年続けて都合三年この村へ行ったが、一度も失敗せず、年々非常に感謝され、記念品として沈金塗の大鯛の立派なものをもらったり、学校の下に「佐々木先生記念桑園」と、大きな標柱を立てた桑園までできた。

その後兵庫県の関の宮、大谷、船井郡の上和知、大倉、何鹿の奥上林、物部などへ、それぞれ二三年ずつくらい行って、私の養蚕教師生活は大正七年まで続いた。

船井郡の時、養蚕組合書記の加舎亀太郎君から、「君には日本一の養蚕教師給料を差し上げる」といって渡してもらった給料が、たしか百八十円だったと記憶している。

この頃までの養蚕は、蚕は在来の小石丸、昔だったから虫も小さく、そう飼いにくいものではなかった。ところが私の養蚕教師時代には温暖育が析衷育に進んで、だいぶ改良されてはいたが、やはり昔ながらの乾燥第一主義で、桑は刻んでいたうえに温度をかけられるから、萎凋して蚕の食欲をそそらない。

蚕はいつも腹を減らしていたから失敗が多く、定石通りにやっても、またしても蚕が腐ったりして、養蚕教師が逃げ出したり、大失敗をして首をくくった者もあったほどで、養蚕教師も、なかなか楽なつとめではなかった。

私は自分のカンで温度の調整をはかり、これが桑の萎凋を防いで、一度も違作などしたことはなかった。とにかくは波多野翁によって率いられた京都府の蚕業は、サン然頭角を抜いたものだった。

ただに技術の上ばかりでなく、人間としても他の地方の養蚕技師とは心構えがちがっていたように思う。私なども、波多野翁がなかったら、人生にどんな滑り出しをして、どんな者になっていたか分からない。