二度寝姫

 

正山千夏

 
 

毎朝毎朝起きたくないの
ねむくてねむくて仕方がない
外では雨の降ってる音がする
午後からは雪になると天気予報
カーテンはあけないで
もう一度眠らせて

毎朝毎朝起きたくないの
ねむくてねむくて仕方がない
起きたって今日もすることなんにもない
やらなきゃいけないことばかり
やりたいことはなんだっけ
もう思い出せないの

毎朝毎朝起きたくないの
ねむくてねむくて仕方がない
がらんどうの部屋
ひとりねむるベッドは広すぎて
真っ白い雪の一面につもる
足あとのない平原みたい

毎朝毎朝起きたくないの
ねむくてねむくて仕方がない
せっかくあたたまった毛布から出るのが嫌
はだしで踏む冷たい床が怖いの
嗚呼だれか私に
林檎を食べさせてくれたなら

毎朝毎朝起きたくないの
ねむくてねむくて仕方がない
外ではまだ雨の降ってる音がする
夜からは雪になると天気予報
カーテンはあけないで
もう一度眠らせて

 

 

 

眠りたくない

 

正山千夏

 
 

ベッドに入って
ずっとケータイを見てる
もう見尽くしたタイムライン
さて次はどこへ

みんな眠ってしまった
電車の音も聞こえない
更新されることのない夜は真っ暗
頭の中でキーンと響く沈黙の爆音に

聞き耳を立てている
分厚い布団の寒い夜
より一層の星のかがやきが
鋭く切りつける光年の疑問に

一方四角い光は秒速で
何も解決しないかのよう
慣性にとらわれっぱなしの私の寝床
さて次はどこへ

眠りたくない
どこへ飛んでいくのか
目を閉じてしまえばまるで魔法のよう
何もかも終わるのに

 

 

 

せめて真っ新のゴミ袋くらいにはなりたかった *

 

雨は
あがった

高地では

雪なのだという

ここは
高地ではない

海辺の街

みかんとお茶がとれる
白子もいる

ヒトは
曖昧だね

笑っている

三保の
海は

急深かになっていて
離岸堤の近くに鯛もいる

このところ舟を浮かべていない

なにも
海に

浮かべるものがない

雨は
あがった

せめて真っ新のゴミ袋くらいにはなりたかった *
せめて真っ新のゴミ袋くらいには *

壇蜜の日記が届いた

 

* 工藤冬里の詩「焼肉屋」からの引用

 

 

 

焼肉屋

 

工藤冬里

 
 

異言語が鏡に映って一対の羽根になり
滅ぼすことにした、と読み取れたが
窓の位置が箱舟だったのか
同じ耳をした一対が入っていった
眼鏡を外すと
ルクレツィア・ボルジアだった
すべての顔は大雨に打たれる動物のようだったので
地下の湖に滑り込ませた
顎髭の似合う顔を探し当てたが
それは困っている人の顔だった
人に恋するのか動物に恋するのか
どちらかにしてくれと言われ続けたが
かえって詩をビニール袋に包んで隠しておいた
切られた空が明るくなりはじめ
持っていない資産まで取り上げられた
僕は自分がひとつの頭陀袋になったような気がした
仕合わせそうな客たちの中で僕は誰よりも食べるのが速かった
それは食事ではなくなにか別のものだった
動物を焼く前に
千円札をぽろぽろ使って
シャワーだけは仕切り直せる個室だったのに
いくら浴びてもストラングラーズのドラムのおじさんみたいな襤褸切れだった
僕は全ての服を裏返しに着た
せめて真っ新のゴミ袋くらいにはなりたかった
強い風が吹いて洪水後の地面は乾いていった
羽根が生えてしまうので紙を裏返しにすると
紙が盛り上がってきた
虫でさえ翅がありそれらは手ではない
やり方を間違うと死ぬことになる
両手一杯分の粉末をもって入っていった
さびしいから人を呼んで腎臓を一緒に食べたい
羽根の先と先の間の空間に煙は立ち込めるか
フューズ管を覗くように異言語が語る
あなたはどうしたいと思いますか
ホルモンはなかなか焦げないです
命は決して終わらない

 

 

 

長田典子詩集『ニューヨーク・ディグ・ダグ』(思潮社)について

 

辻 和人

 

 

長田典子さんの最新詩集『ニューヨーク・ディグ・ダグ』は、ニューヨークに2年間語学留学した体験をドキュメンタリー形式で書いたものだ。長田さんは小学校の先生をしていたが、50代半ばに退職して一発奮起し、長い間の夢を実現させた。帰国後、この一世一代の体験が自身の人生にどのような意味を持つかについて懸命に考え、詩の言葉によって結晶させたのが本書である。

 

空0高層ビルに囲まれた
空0四角いセントラルパーク
空0そこは むかし 羊のいた牧草地だったという
空0羊のかわりにヒトがたくさんいて
空0海辺でもないのに水着になって
空0芝生の上に寝転がり 肌を焼いていた
空0影のないヒトたち
空0わたしは過去から迷い込んだ
空0一匹の羊なのか

 

渡米してすぐ、セントラルパークを訪れた日を描いた「笑う羊」。最初は日本では見慣れない光景を珍しく感じていただけだったが、観光に来たのでない長田さんは、この風景のただ中に飛び込み、新しい環境に溶け込もうとして、大胆に想像力を膨らませる。

 

空0ワタシは羊ナノデス
空0ぴょーん ぴょーん
空0飛び跳ねる
空0羊なのです
空0<中略>
空0わたしを助け出さないでください
空0わたしを連れ出さないでください

 

小学校の先生として、厳しい規律を身に染み込ませ、子供たちに教える立場であった彼女は、一転して自由の身になった。気力の漲った、飛び跳ねたくなるような爽快そのものの気分。生まれ変わったような解放感が伝わってくる。そしてこの、伝えたいことを細かいところまできちんと説明して伝えていくという姿勢は最後まで貫かれる。

長田さんは、次の詩「Take a Walk on the Wild Side」で留学を決意するに至った深層の理由を説明する。これから200ページにわたって延々と紡がれる留学の記録は、単なる異国への訪問記ではなく、人生を進展させるための重要なステップの記録なのだ。まじめな人の冒険にはそれなりの理由がなければならない。順を追って読者に対する説明責任を果たそうとするところがいかにも元教師らしい。
早朝、昨夜ラジオで流れていた歌の「Doo, do, doo」という掛け声と「Take a Walk on the Wild Side(危ない方の道を歩け)」という歌詞を思い出したことをきっかけに、作者は幼い頃の酷い体験に浸り込む。

 

空0「お父さんは、いません」
空0玄関先で早朝から訪れる借金取りに言うのがわたしの役目だった
空0父は逃げて行方不明
空0次々と商売を始めては失敗に次ぐ失敗
空0恋人の家に隠れているらしかったが
空0夜中になるとまた借金取りが来て
空0家のドアを怒声を上げて叩き続けていたっけ

 

長田さんの父親は事業に失敗し家族に負担をかけていたのだった。「Doo, do, doo」は、借金取りがドアを叩く音に重なる。しかし、ここでひねくれなかったのが長田さんのすごいところだ。父の二の舞を踏むまいと、勉強して教師になり、安定した生活を築くことができた。

 

空0手堅い仕事は世間的には立派だった
空0手堅い仕事は満身創痍であった
空0手堅い仕事は大変に屈辱的だった
空0手堅い仕事は四冊の自作詩集と建売住宅を与えた
空0手堅い仕事はそこで終わりにして
空0わたしは異国で暮らし始めた
空0永遠に遂げられなかった愛を成就させるために

 

どうやらこの語学留学は英語を取得することが第一目的ではないようなのだ。もっと根源的な目的、即ち、奔放な父親の失敗を見て、こうはなるまいとまじめ一筋に過酷な仕事に長い間打ち込んだ挙句、自分を本来あるべき自由な姿に戻すためなのだ。外国語の取得を口実に未知の世界に飛び出すこと。本来の長田さんは、新事業に挑んで敗れたお父さんのように、冒険をする性質の人だったのだ。まさに「Take a Walk on the Wild Side」そのものだ。

 

空0ああ お父さん
空0わたしも ここで
空0もう一つの命を始めます

 

故郷から遠く離れたニューヨークで、ようやく父親との「和解」を果たすことができたというわけだ。

そしてそれからは勉強、勉強。中年期に達してからの語学学習には困難が伴ったようだが、努力家の長田さんは持ち前のガッツで着実に実力をつけていく。そして休日、久々にのんびり過ごしていたところ、思いがけないニュースを耳にする。

 

空0え、地震? トーホク?
空0一時間前に起きた地震を知らせる赤い文字、
空0配信映像、クリック、
空0キャスターがヘルメットをかぶって叫んでいる
空0「落ち着いて行動してください!身の安全を確保してください!」

 

東日本大震災である。長田さんはあの大惨事をニューヨークで知ったのだった。この「ズーム・アウト、ズーム・イン そしてチェリー味のコカ・コーラ」は、詩集の中のハイライトとも言うべき、長大で手の込んだものとなる。インターネットを介して映像を食い入るように見続ける長田さんは、この世のものとも思えないような悲惨な光景にショックを受けながら、その災禍が自分の身にふりかかっていないことから、次のような感慨を覚える。

 

空0ズームアウト、上空から、
空0分裂したもうひとつの意識がむしろ画面と一体になってしまう、上空から、
空0なんでこんなに冷静なんだわたし!
空0リアリティ、
空0リアリティ、ってなんなんだ!

 

現場にいないのだから、冷静なのは実は当たり前なのだ。これが別の国で起こったことであればどんなに悲惨であってもそれは「ニュース」であり、冷静であることも自分で納得できただろう。しかし、長田さんは災害が起こった日本を故国とする人である。そのため現場に立ち会えなかった者特有の罪障感、つまり一種の意識の倒錯が訪れる。そして長田さんは咄嗟に、今いるニューヨークでかつて起こった惨事、あの9.11事件を思い起こす。

 

空0ニホンで
空0ツインタワーに飛行機が突っ込むのを見ていたあのときテレビで
空0ビルに突っ込む飛行機と黒い噴煙に圧倒されてビルの中にいる
空0数えきれない人たちに思いが及ぶまで時間がかかった
空0映像の中のツインタワーだった

 

メディアが発達した現在、我々は大災害を、まず映像を見ることで体験するのが普通だ。そして、映像の中で多くの人が苦しんでいるのにもかかわらず、自分が掠り傷一つ負っていないことに違和感を覚えてしまうのだ。長田さんが日本にいたならば、たとえ被害に遭わなかったとしても、東日本大震災を自分の問題として受け止めることができただろう。周りに被害者を悼み、救済について考え、日本の将来を憂える、共感してくれる知人がたくさんいるからだ。しかし、ここはニューヨークだ。共感の輪の中にいない長田さんは、かつてニューヨークで起こった悲劇を、今日本で起こったばかりの悲劇と、「テレビの映像を見た」という体験の共通項で衝動的に結びつけてしまう。
いかにショックを受けていると言っても、日常生活を送らないわけにはいかない。猫に餌をやったり、洗濯したり。そして長田さんは原発についてのアメリカでの報道と日本での報道の違いを気にしたりしながら、次のようなことも書く。

 

空0いつものようにベーグルや水や果物を買いに出掛けるついでに
空0お気に入りのバナナリパブリックやGAPでのウィンドウショッピング
空0傷物のトレンチコートが百ドルで売られているのを見つけて買ってしまう
空0裏地は白に水色のストライプの布がとってもキュートな
空0“This is really beautiful” (これ、ほんとに素敵ですよね)
空0店員さんが言いながら袋に詰める横顔を見て大いに満足する
空0<中略>
空0朝 ニューヨーク三月十三日
空0泣きはらした目で支度をし
空0クラスメイトとバスでハーレムを横切ってクロイスターズ美術館に出掛ける
空0会うなり百ドルで買ったトレンチコートの自慢をする

 

実はこうした何気ない日常の描写がこの作品のうま味を作っているのだ。泣くほど衝撃を受けているのに、同時にのんびりと生活を楽しんでしまう、人間の二面性を、長田さんは細やかなタッチできびきびと描いている。オイスターバーの料理に舌鼓を打って帰宅すると、フクシマ第一原発が爆発したことを知る。

 

空0有名なニュースアンカーが被災地の報告をする
空0立っている場所はどう見てもトーキョーのどこか
空0同じだよ、
空0わたしもこんなに嘘くさい
空0遠い、ヨコハマ、遠い、トーキョー、センダイ、トーホク!
空0ズーム・アウト、わたし、上空から、わたし、ズーム・イン、
空0ぐうたら、ぐうたら、ズーム・イン、ズーム・アウト、
空0地震、火災、家屋倒壊、津波、余震、死者多数、死者多数、原発爆発!、原発爆発!!

 

いろいろな感情が錯綜し、混乱した長田さんは自分を「嘘くさい」と感じるようになり、落ち着きを失ってしまう。翌日の「午後のマイク先生の授業」では、何と皆の前で一時間も一人で地震や原発についての考えを喋ってしまうのだ。

 

空0眉間に皺を寄せて喋り続けてしまって喋るのが止まらなくなってしまって
空0マーク先生はわたしの話を遮らずに最後まで聞いていた
空0午前中、映画のCGみたいだったね、と無邪気に喋っていたクラスメイトたちも
空0黙り込んで下を向いていた

 

このクラスはすごく良いクラスだと思う。一人の生徒の心の痛みを皆で受け止めようとしてくれるのだから。言いたいことのある人が喋り、周りは真剣に聞いて理解する。言葉の教育とはこうあるべきではないだろうか。マイク先生は「もし、世界で一つだけ変えられることがあるなら、わたしは……」というテーマで作文の宿題を出し、長田さんは一週間後に原発事故について書いたエッセイを提出する。そのエッセイは英語の原文と日本語の訳文の両方でまるまる詩の中に引用される。長くなるので引用は避けるが、高揚した気分が伝わってくる熱い文章である。そして詩は、「たとえば/葬儀に参列したとき/きゅうに、ぷうっと吹き出したくなる/あの感じ」を想起しながら

 

空0同じだよ
空0わたしも
空0こんなに
空0嘘くさい
空0そらぞらしい

 

と締めくくられる。この詩全体は、海外に身を置いて東日本大震災のニュースに接した日本人の意識を生々しく書き留めた、非常に貴重な記録となるだろう。ここには、矛盾する行動と心理の混淆が、場面に即して精確に描かれている。現実というものはこうしたものなのだろう。「嘘くさい」のリフレインは、逆に作者の率直さの表れである。この「率直」をできるだけ落とさず、余さずに読者に説明するというのが、この本詩集のスタイルだ。

長田さんは語学学校の学生であり、そこには様々な地域から訪れた学生がいる。当然、文化の違いに敏感にならざるを得ない。「蛙の卵管、もしくはたくさんの眼について」は自作の英文の詩の引用から始まる。蛙の卵の一つが「僕」という話者として語るというもの。兄弟たちは成長してオタマジャクシになり、水から出ていくが、「僕」は卵のまま水の中に留まっていつしか干からびてしまう、そして「空に浮かぶ眼」となり、いつしか空で兄弟たちと再会し、また蛙の卵管に入っていく、という内容である。これもマーク先生の教室に提出されたものだ。

 

空0きょう
空0creative writingの授業で
空0マーク先生は
空0とてもよい詩だ、と褒めた後で
空0実はまったくわからないのだ
空0輪廻転生ということが……
空0キリスト教では
空0死は完全に終わってしまうことだから
空0穏やかに微笑みながら言った

 

このマーク先生という人は「自分はエジプト人とポーランド人の/血が混じっていると/誇らしげに」話すキリスト教徒ということだが、日本人の男女から生まれ、つきあう人々も皆日本人という環境で育った長田さんも実は教会に通っていたのだった。

 

空0田圃で蛙の卵塊を見かけるたびに
空0怖くなって走って家に帰ったあの頃
空0河岸段丘の底の小さな集落から
空0斜面に沿った急な坂道を登って
空0山の上の町に行き
空0そこをさらに横切って西に歩き
空0教会のある幼稚園に通った
空0礼拝の日は入口で神父様の前でひざまづき
空0パンを口に入れてもらったのだ

 

更に次のような告白をする。

 

空0幼い頃
空0いつも誰かに監視されているように感じていたんだ
空0小さな集落や教会のある町はわたしを縛りつけるたくさんの眼だった
空0強い結束が絡み合った大きな家族のようだった

 

同じキリスト教の経験でも随分違う。マイク先生の場合、異なる習慣を持つ多民族が共生する環境の中で、キリスト教が皆を束ねる軸の役割を果たしていたのではないだろうか。長田さんの場合は、互いを見張るような関係の密な村落の中で、教会はたまたまそこにあったものの一つでしかなかった。何しろ「幼稚園に行かない朝は/お仏壇にお線香をあげて拝みました」というのだから。

 

空0ずっと人の眼が怖かった
空0いや、自分の眼だ
空0人の眼は自分の眼だ
空0とてつもなく捻じれたコンプレックスの闇だ

 

長田さんは蛙の卵の詩を書くことによって、「眼」と対決しようとしていたのだった。しかし、ニューヨークには「わたしを見るたくさんの眼はどこにもない」。

 

空0Oh My God! Frog’s fallopian tubes are Chinese dessert ingredients!
空0(なぁんだ! それはチュウゴクのデザートの食材だよ!)

 

こんな声があがり、教室は爆笑の渦に包まれる。外からの「眼」によって相対化された蛙の卵は、凝り固まった自意識を解きほぐす。長田さんはふっきれた気分になり、明日はチャイナタウンで蛙の卵を食べようと決意するのだ。

ニューヨークでの生活も長くなってくるとちょっとした冒険もしたくなる。「DAYS/スパイス」は、「メキシコ料理店でホモセクシュアルやゲイやトランスジェンダーの人たちが/集まるパーティがあるから行かない?」とメキシコ系の女友達に誘われた時のことを書いた詩。長田さんは、メキシコ料理を食べてみたいという単純な思いから店に足を運ぶ。聞かされた通り、皆「とてもいい人たち」で、「どの人も穏やかな笑顔でずっと前から知り合いだったみたいに話しかけてくれた」。おいしい料理を堪能し、女友達に誘われて二階のダンスホールに行く。

 

空0階段を上がり終わったら急にアップテンポの曲が始まり
空0もともとダンサーの彼女はカクテルを頼むのもそこそこに
空0めまぐるしく交差する赤や黄色や青や白のライトの下で
空0ここぞとばかりに気持ちよさそうに全身を躍動させて踊り始め
空0わたしはあっという間に彼女を見失った

 

「料理を食べる」という目的を果たし、頼りにする知り合いを見失った長田さんは宙に浮いた存在になってしまう。店の隅っこでカクテルを飲んでいた長田さんだが、ここで「アクシデント」が起こる。

 

空0音楽が急にスローになり肩幅が広くて胸の厚い男の腕に肘を引っぱられた
空0ちらっと見えた大柄の男の横顔は浅黒いメキシコ系だった
空0顔を見たのはそのときだけだった
空0手をとって一緒に踊ろうというしぐさをしたかと思うと
空0すでにわたしの身体は男の分厚い胸や太い腕に抱きすくめられ
空0マリオネットのように男と一緒に踊っていた
空0赤や黄色や青や白の線状のライトも音楽のテンポに合わせてスローな動きになっていた
空0悪い気分ではなかったボタンの留められていない男の上着が
空0大きな翼のようにわたしの細い身体をくるみむしろすっかり安堵していた
空0留学生活はまるで薄氷の上を歩くみたいに冷や汗の連続だから
空0スパイシーな体臭さえも心地良くわたしの鼻を満足させた

 

映画のような豊かで細密な描写に魅せられる。ここで注目すべきは「顔を見たのはそのときだけだった」という一行だ。ダンスに誘われた長田さんは相手を個人としては認識していない。酒に酔い空気に酔い、その流れで、「異国の男」に酔ったのだ。

 

空0わたしは指先に弛んだ男の贅肉を見つけてちょっとだけ摘んでみた衝動的に
空0いつのまにか目を閉じていたはじめから目は閉じていたのかもしれない
空0それから男はわたしの唇に唇を押しあててきた
空0すごく柔らかい唇だった厚くて少し湿った唇はわたしの唇のうえを蠕動し
空0何年も前からわたしたちは恋人同士だったかのように自然に口づけをしながら
空0男の大きな懐に自分の身体をまかせていた
空0両方の掌を男の肌にぴったりあてたたまま
空0男がそっとわたしの口の中に舌をすべり込ませてきても自然に受け入れた
空0男はわたしの舌をも尊重かのするような人格のある舌をゆっくりと動かし舌と舌は
空0うっとりと絡み合いつづけ時がたつことなんかすっかり忘れていた
空0男はそれ以上のことはしなかったしわたしもそれだけでよかった

 

堅実な元教師で勤勉な学生である長田さんの隠れていた一面がくっきりと浮かび上がる。もし長田さんが日本にいたなら絶対にこのような行動はとらなかっただろう。誰しもなりふりかまわず官能に身を任せてみたいと思う時はある。が、若い頃はともかくある年齢を迎え社会的な地位ができると、歳相応・地位相応の振る舞いをするようになる。それを、分別がついた、と世間では言うのである。長田さんは、束縛の強い村から束縛の強い学校へと、「分をわきまえる」ことを強いられる生活を送ってきた。愛する男性との生活も「結婚」という枠の中で営まれてきた。まじめに、堅実に、悪く言えば小心者として、半生を送ってきた長田さんは、ここで一個の生命体としての欲求に身を任せることをしてみたのだ。

 

空0店を出てタクシーに乗るころには
空0わたしは男のこともメキシコ料理の味もすっかり忘れていた
空0柔らかく蠕動する唇と人格をもったような舌の動きだけは覚えていた

 

男のことは忘れたけれど「舌の動き」だけは覚えている―そのはずである。舌は、相手の男の部位であることを超えて、長田さんが自身の心と身体の自由を感じる、生きている律動そのものだったのだから。

この詩集は、留学生活の様々な局面を、具体的に描写することで成り立っている。いつ、どこで、誰が、何をした、ということが小説のようにきちんと明示的に書かれている。作者の内面を暗示的な方法で描くことを軸とした現代詩の多くとは、対称的な書法であると言って良いだろう。暗喩を中心とした書法では、読者が「何となく類推できること」から遠くへは行けない。だが、この小説的な、明示的な書法であれば、複雑な状況をその状況に即して幾らでも細かく描くことができる。散文的な手法を取り入れてはいるが、本作はあくまで詩であって小説ではない。表現の軸は、その時々の心の震えを言葉の律動として際立たせることにあり、そこから決してブレることはない。詩の表現の幅をぐーんと広げる、新しい書き方であると言えよう。
そして長田さんは散文性を大胆に取り入れた書法で、その時その時の自分を、ある時は外からある時は内から、しっかり眺め、その像を読者にしっかり伝えようとしている。まるで教室で30名程の人を相手に発表を行うかのように。一番後の席の人にも届くようにはっきりした発音で、じっくり丁寧に順序立てて、自分の一世一代の体験の意味をわかってもらおうとしている。
そこに長田さんの生来のきまじめな性格が明確に表れる。それは、強いられたのでない、内側から湧き出るきまじめさなのだ。

 

 

 

家族写真

 

村岡由梨

 
 

家族写真を燃やしてしまった。
まだ若い父と母と、幼かった姉と私と弟が笑っている。
真ん中に座る幼い私の顔に十字の切れ目を入れて火を付けたら、
一瞬十字架の様な閃光がピカっと光って
瞬く間に私の顔は溶けて無くなり、
火が燃え広がって、消えてしまった。

私たちは、消えてしまった。
私たちは、壊れてしまった。

家族写真を燃やしたことで、
母を悲しませてしまった。
今はもう会えない姉も、きっと悲しむだろう。
弟はどうだろうか。
精神を病み、大量服薬を繰り返した私を、軽蔑していた父。
私の母ではない女性たちとの生活に安らぎを見出した父。
腹違いの弟たち妹たちの方が優秀だ、と言って自慢する父。
父も悲しむだろうか。いや、悲しまないか。いや、悲しむか。

この詩を読んで、母はまた悲しむだろう。
言葉は時に残酷で、人を深く傷つける。人の人生を狂わせる。
人はなぜ、生きようとする時、
自分以外の他の誰かを傷つけずにはいられないのだろう。
父も母も姉も私も弟も
ただ生きていただけなのに。
ただ生きているだけなのに。

私は生まれた時から親不孝者で、
親からたくさんのものを与えられてきたけれど、
自分が親に何か与えたかといえば、何もない。
何もないのが、情けない。
この先、私の娘たちが「親」の私を憎むことがあるかもしれない。
往々にして子どもから憎まれる「親」という分際に
自分が成り下がってしまったのが、情けない。

ああ
また母を悲しませる言葉を書いてしまった。

父や母や姉や弟といた世界はファンタジーだったんだろうか。
私は今、二人の娘という
血があり、骨があり、肉がある
究極的に現実的な存在を得て、
夢から醒めつつあるのかもしれない。
曖昧だった喜びや悲しみや怒りが、真実のものとなって
人生における大きな「気づき」のようなものを手に入れたのかもしれない。
それは多分、幸せなこと。

なのに、なぜこんなに胸が苦しいんだろう。
写真に火を付けた時、
これで何かを乗り越えられるんじゃないかと
何の根拠もなく考えていたけれど、
残ったのは焦げくさくて黒い燃えかすだけ。

本当は苦しくて悲しくて仕方がなかった。
結局、誰も幸せにすることが出来なかったから。
誰かを幸せにするだなんて、自惚れもいいところ。
でも、本当は消してしまいたくなかった。
壊してしまいたくなかった。

かけがえのない「家族」だった頃の、私たちの記憶。
私は大切なものを、燃やしてしまった。
二度失ってしまった。
私たちはあの時笑っていたのに。
本当にごめんなさい。