また旅だより 20

 

尾仲浩二

 
 

どこにも行けないことをうだうだ書いてもつまらないので昔の話。
35年ほど前に住んでいたボロ家の近所のちいさな食堂がまだあった。
ここのちっとも辛くない麻婆豆腐は刻んだタマネギがたくさんで美味しい。
だから僕が作る麻婆豆腐はいまでもタマネギがたくさん。でも痺れるほど辛い。
9年前の話。

2020年4月14日 東京中野にて

 

 

 

 

千年シネマズ

 

工藤冬里

 
 

過ぎ去り方が速くなった
名詞や個体ではなく思惟そのものが一コマで消える
文尾まで聞き進むうちに動詞が肯定だったか否定だったか忘れている
間違いだけが結び目を、
大河内伝次郎の言い損じが映画を形作る
欲求だけ考えて感染させる
カメラのパンのみによって生くるにあらず
zoomの踏み外しによって事故は自己になるのだ
巻き貝が喋る時口を窄める
不従順なシラー・ペルピアナと共にオオツルボが犯す同じ過ち
ジャン・ ルイ・シェフェールが喝破(カッパさん大丈夫かな)したように、私たちは映画を観ているのではない
じかに倫理に触れているのだ
千年の営林
自分で春の雨のなかの甘い父を二百回演じる
コロナは一時的なものに過ぎない
骸骨バレリーナも操られて立ち上がる
フィッグ・バーの枕木がコマを区切り
無花果の位置軸が移動している
ハグが語源と共に過ぎ去る
a film
with constant sorrow
掘れない鉱脈の瞬きの移動のなか
一瞬目にする井戸
記憶できない美しさ
当局からの勧めに従い
記憶しない
映画よ滅びる国に従え
人の命を守れと言われたら守れ
もうすぐ滅びるのだから従え
映画よ滅びぬ国に従え
自分の命を守るな
滅びないのだから従え
死者が演じる六千年のロック史を撮影せよ

 

 

 
#poetry #rock musician

reverie・幻想

 

さとう三千魚

 
 

ハモニカを
吹きたい

そう思い

10穴のブルースハープを
持っている

たまに海に持っていく
けど

曲は吹けない

たまに
風のような音を鳴らしている

ピアノで
シンフォニア11を弾けたら

どんなに
いいだろう

とも
思う

シンフォニアの楽譜
持っている

ピアノもある

でも
弾けない

この世にないものを求めている

犬のモコを連れて

空に浮かぶ
雲を見たりしている

 

 

*タイトルは、twitterの「楽しい英単語」さんから引用させていただきました.

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

緊急事態

 

長尾高弘

 
 

いい感じで弾丸が入ってるロシアンルーレット。
ひとつかと思ったらふたつある。
王冠のマークが付いたのと、
コインのマークが付いたのと。
金持ちが持たされるのは王冠マークの方だけ。
そうじゃない人は両方。
入ってる弾丸の数も違うって噂だよ。
少なくとも
コインマークの方はなしにしてくんないかなあ。

 

 

 

blast・爆破する 枯らす

 

さとう三千魚

 
 

昨日

玄関で

義母の姫林檎の花が
咲いた

ひとつ
咲いた

細い枝の先の先に白く咲いた

モコを
連れて

近所の川沿いを
歩いた

雲が
ふんわりと浮かぶのをみてた

午後には

安掛正仁さんの
瀧の

写真をかけた

玄関にかけた

瀧が落ちて
地上にぶつかる写真だ

そこに遠い命がある

ヒトは
いない

人間ではない
人間ではないところに

命がある

そこに
いる

夕方には

女がミネストローネというスープを
作った

美味しかった

ビールを
飲んだ

深夜
イタリアのClaudio Parentelaが生きているのを知った

生きていてよかった

新型のウィルスで
ヒトたちが死んでゆく

生まれたのは偶然だが

偶然に
死んでもいく

自己に拘泥して必然を探してきた

爆破する
枯らす

瀧が水しぶきをあげて地上に落ちている
命がある

そこにいる

 

 

*タイトルは、twitterの「楽しい英単語」さんから引用させていただきました.

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

千年演劇

 

工藤冬里

 
 

音楽が演劇の一部であることによって欠損を生きるのであれば
写真は死の一片であることによって充足を希求する
詩にはそうした充填がない
言語は神の一部であったが二重の意味で疎外されているからだ
ひとつはバベルであり
あ、サクラが散りはじめた
もうひとつは千年演劇に関わる言語をduolingoでは習得出来ないということなのだ
詩人は城外で犬と共に泣いたり歯ぎしりしたりするしかない
いまはそれを過度的に詩と呼んでいるだけだ
元気でなければ詩は歌えない
ところがいまは元気ではないことの領域でしか書き言葉は息をしていないのだ
それは充足の欲望とも違う
希望はないからだ
コミュニケーションの運動のみをあげつらうのは道教的現象学的経絡的であって命を賭けるに値しない
それに決着をつけるためにきみは若い頃
余はかかる思想に拠りては未だ行動すること能わず、とか言ってさんざん格闘したはずだ
それにしちゃガラ刑をライフワークとか帯つけて売ってるわね
あ、ホンダのn/が通った
ひかりは溢れているが
アルシーヴの密室で感染することが優先されるいま
サクラは黒い

今朝
怖れに満たされて女は走った
マルコのアルシーヴはそう結ばれている
そこにはスピードだけがある
サイケデリック・スピード・フリークはそこを目指した
なんだかんだ言ってその話かよ
だからコロナでこうなろうって話しでもないんだよね
えーっ、ギトギト水田商店自主休業かよ
演劇は美術と一緒でなんだかんだ助成もらって演劇とは何かみたいなところに突き進んでるけど、そもそも実験演劇って必要なのかな、とおれは思うわけ
雅歌劇鼎談風ね
音楽だと実験音楽というジャンルがあって
FBで日本のそういうの避けてるわよねあなた
でも演劇の一部という意味で言うと、実際は実験音楽じゃなくて音楽実験、つまり音楽を使った水爆実験みたいなものしかやる意味がないんじゃないかな、というところがあるんだけど、
演劇は初めから包括的なものだから、これは実験演劇じゃなくて演劇実験です、というずるい言い方は成立しないんだよね
いくら参加型にしたってそれは越えられない
美術は越えようとしてるけどね
でもそれはもはや美術じゃなくてただの運動で、金が動いているからに過ぎない
音楽の側から言わせてもらうと、音楽は演劇の一部とか謙遜に言ってあげてるわけなんだから、演劇には、なんか、こう、デーンと構えてて欲しいわけよ(笑)
でもじゃあ演劇は永遠かというとそうでもない
ローマのコロシアムでライオンに殺される側はじぶんたちを規定して、世に対して劇場の見世物であれ、と書いているんだけど、ミレニアムに於いては世そのものがなくなっていて、逆に彼らこそが復活してくる死者を迎える世そのものの側になってるわけだから、そこにはもはや演劇は存在しないはずなんだ
人類史に通底する大きな物語というレンズを通した光が焦点を結ぶまでが演劇で、彼らを含むたくさんの出し物が来るべきものの予表として置かれたわけだけど、彼らは演芸場で言えばトリで、それ以降は逆ではあるけれども暗室に映しだされる実体としての世界しかないんだ
演劇が存在しないってことはその一部ですとか言ってた音楽も存在しなくなるんだろうか
劇というものは二千年前からもう上演されなくなっていて、真の演劇というその意味のなさの殻のなかで音楽は宿を借りて住んでいたということになる
3月分の図書館の給料7千円だった
4月はゼロ
野菜売ってないので庭の蕗と野蒜食べてる
いまは骨壺作ってる
それに今まで撮った画像データ全部に「アルシーヴ」という曲を被せたUSB(まあ、映画ですね)を入れてバンキャンで売る
前にも「休日出勤」という曲と「worth to see」という写真集の入ったマイクロsdを専用の白磁の蓋物を作って売ったら久万美とかで変にウケたことがあって、それを思い出してやってみている
それで終わりにしたい

 

 

 
#poetry #rock musician

流れた

 

道 ケージ

 
 

流れて来るものは、何なのか
思いやる気持ち
やさしさの心映え
ベルトに次々流れ来る

流れ出すものは何なのか
感謝、見返り、裏心
天地無用!
言語無用のアルバイト

福岡から明太子、あまおう、京都から竹の子
大分の生鮮野菜、佐賀和牛、タカノのフルーツ
下北の生鮮魚、福島から蟹、北海道はうに
どこやらののどくろ

これをすべて横浜港南・金沢・南に
(集中する邸宅もござる)
冷気とドライアイス
軍手・マスク持参
ヘルメット・安全靴は貸与

流れ来たものを
腑分けする深夜
流れ来る言葉を押しとどめ

(休憩1時間)
薄汚れたベンチと壊れた便器
洗剤もアルコールもない
「黒猫」は黒く、あまり鳴かない

01は取り入れ、10は流す
これが間違いやすい
荷物を投げ返される
言葉はない

言葉なき肉体の労働
報いなのか
言葉なしを試されているのか

夜明けの帰路
運河に何かが
一つ流れていた