この夏の霊魂をのせた一艘の舟が揺籃の地を過ぎるとき

 

駿河昌樹

 
 

ほとんど言わないことなのだが
たまに
言っておいてみても
いいかもしれない

わたしは
じぶんが書くものが誰かに読まれるとは
思っていない

誰かに読まれたことがあるとも
思っていない

いずれは読まれるだろうとも
思っていない

そのように思いながら言葉ならべをする人
わたし

ヘンだとは思わない

わたしは厖大な書籍を所有しているが
古いものは
現代では
まったく読まれていないのを知っている

うちからは十五分も歩けば古書店街に着くが
そこには
かつて発行されたものの
今では好事家にしか見向きもされない本が
まさに山積みされている
本が貴重な尊いものだなどという妄想を一瞬に打ち砕くには
絶好の光景がどこの古本屋にも見られる

書くのが
なにか意義がある
などと
思うのが
どうかしているのだ

書けば
ひょっとして
読まれるかもしれない
などと
期待するのが
どうかしているのだ

読まれたら
どうにかなるのだ
なにかが起こるのだ
などと
考えるのも
どうかしている

読まれる
というのは
書いた者の期待するような読まれ方をする
ということで
パラパラ
ページをめくられて
適当に断片的な言語印象を拾われていくことを意味しない

だいたい
書いた者も
書いた者の未来に
裏切られ続ける
続けていく

本というのは
作ってしまったが最後
死屍累々の紙束のひとつになるだけのことで
それ以上のなにかとして
残るかもしれない
などと
期待するのは狂気もいいところ

ソ連が崩壊し
東ドイツが崩壊してから
しばらくして
マルクス主義専門の古書店に行ったことがある
政治や経済の本はもちろんだが
マルクス主義的文芸批評や文明批評や精神分析の本まで
ごっそりと並んでいて
本や思考や精神が一気に無効化していく現場を眺めていた
『腹腹時計』なども売っていて
あ、これがあれか
これが…
などと
ランボーみたいな反応をしたが
それだけのことで
革命は流産していた
暴力は遠い老人だった

もちろん
本は使いようだから
帝国主義的発想や連合赤軍的文明批評や
オウム真理教による悟り方全書だって
いくらでも価値はある
しかし
それらを論文のための思考の助けに使うことはできなくなる
資料としてしか
もう使えない
その際にも周到に注をつけ
説明を加えながらでしか
使えない

わたしは短歌結社に入っていた頃
毎月発行される歌集をさんざん貰ったり
買ったりしていて
年間で優に数十冊は溜まっていったものだったし
それらのどれもそれなりに面白くはあり
作者の思いというものにそれなりに触れた気になったし
いちいち礼状を書いたし
いちいち感想を書き送ったし
その後に作者に会えば「いい歌集でした」と
紋切り型のご挨拶から始めたものだが
いま手元に残っているのは
もう
一冊もない
ぜんぶ古本屋に売ってしまった
古本屋の中には「こんなの貰っても
ぜんぜん売れないから燃えるゴミなんだよね」と
正直に言ってくる店もあったりで
数十年そんなことをくり返すうちに
歌集というのはまったくなんの意味もないと思い知った
意味が多少とも出てくる歌集というのは
出版社が費用を出してスターを作ろうとする時の歌集で
それ以外の自費出版はなんにもならない

スターというのは
どのようにしてなるのだろう?
馬場あき子に何度か言われた
寺山修司は中井英夫のお稚児さんになってまでして
ああして出して貰ったんだからね
中井英夫に尻を差し出してね
なるほど
そうしないと
スターにはなれないのだろうか?

詩集も同じことで
いろいろな人からたくさん貰い続けたものだし
中にはなにかの賞を取ったものや
いろいろと取り沙汰されたものもあったりしたが
引越しのたびに手放し
何度も引越ししたいまでは
もう昔に貰った詩集も雑誌も一冊も手元には残っていない
自分の書いた詩が載っている詩誌さえ
いまの住まいに越すにあたっては全部売ってしまった

あちこちで買い集めた
かつて
ちょっと著名だった詩人たちの詩集も
ほとんど手放してしまった
西脇順三郎全集も売り
ほとんど持っていた入沢康夫もすべて売り
清水昶を売り
清水哲男を売り
飯島耕一だけは好きだが買わなかったので売りさえせず
石原吉郎は残し
ほぼすべてを持っている吉増剛造はすべてを残しているが
たぶんもう読まないだろう
と思いつつ
サイン入りの『熱風』(中央公論社、昭和五十四年)をこの前見たら
これは面白く
見直し始めている
1990年代に盛んに書いていた団塊の世代の詩集は
すべて捨てた

稲川方人だけは手元に起き続けている

堀川正美の『太平洋』の初版は持ち続ける

現代詩文庫はほぼ全部を持っていて
ほぼ全部を読んだが
詩を一度いちおう読みましたというのは意味をなさないので
だから何だ?
ということでしかないがもう読まないと思う

  ああ、霊感がいっぱい、あたりまえのこといっぱい*


吉増剛造

  この夏の霊魂をのせた一艘の舟が揺籃の地を過ぎるとき**
  この夏の霊魂をのせた一艘の舟が揺籃の地を過ぎるとき

  この夏の霊魂をのせた一艘の舟が揺籃の地を過ぎるとき
  この夏の霊魂をのせた一艘の舟が揺籃の地を過ぎるとき


吉増剛造

 

 

*吉増剛造『熱風』(中央公論社、昭和五十四年)p.66
**吉増剛造『熱風』(中央公論社、昭和五十四年)p.122

 

 

 

浜辺で会った

 

さとう三千魚

 
 

ここのところ
アレクセイ・リュビモフのピアノを聴いている

リュビモフの顔は

死んだ

義兄に
似てる

平均律クラヴィーア曲集の第一巻

前奏曲を
聴いてる

繰り返し
聴いてる

そこに

義兄がいて
兄がいる

母がいる
父がいる

中村登さんがいる
桑原正彦がいる

一昨日だったか


河口まで自転車で走った

河口にはサーファーたちが浮かんでいた
ノラたちがいた

空は曇ってた

海浜公園では
ヤマダさんに会った

ヤマダさんはサッカーの選手だった

いまは
育成の仕事をしているといった

義父が亡くなって
みんなで見送ったといった

よくしてもらった
といった

いまあるのはみんなのおかげだといった
感謝しかないといった

 

 

 

#poetry #no poetry,no life