フロイトやダニエル・ゲラン

 

駿河昌樹

 
 

まるでマルクスのように
フロイトが
語っている場面を思い出しておく

(大学の教養課程では必須の読書のうちのひとつで
(ああ、これは『幻想の未来』にあったよね
(と思い出せないなら
(単位を落してしまうだろうような
(教養の基礎の基礎レベル・・・

「社会の特定の階級だけに要求がつきつけられる場合には、その状況は誰の目にも明らかなものだろう。冷遇された階級は、優位にある階級の特権をねたむものだし、自分たちのこうむっている〈欠如〉をできるだけ少なくするために、あらゆることをするのは、十分に予想されていたことだ。これができないと、この文化の内部において長いあいだ、階級的な不満が蓄積されることになり、危険な暴発につながる可能性もある。一部の人々の満足が、その他の、おそらく多数の人々の抑圧の上に成立することを前提とする文化にあっては(現在のすべての文化の現状はこうしたものなのだ)、抑圧された人々が文化に対して激しい敵意を抱くようになるのはよく理解できる。この文化は抑圧された人々の労働によって可能になっているのに、抑圧された人々にはわずかな財しか与えられないからである。
そのような場合には、抑圧された階級の人々が文化的な禁止の命令を内面化することは期待できない。抑圧された人々は、この禁止を承認しないどころか、文化を破壊すること、場合によっては文化の前提そのものをなくすことを目指すようになる。抑圧された階級が文化にたいして示す敵意があまりにあらわなので、社会的に優遇されている層においても、文化への潜在的な敵意がひそんでいることがみのがされてきた。だから多数の人々を不満な状態のままにしておき、暴動を起こさせるような文化は、永続する見込みもないし、永続する価値もないことは、自明のことなのである。」(中山元訳)

文化
と呼ばれるべきキラキラシサを帯びた文化は
差別から
階級形成から
下層階級の徹底的な抑圧と固定化からしか
絶対に発生し得ないが
そのあたりの事情を
マルクスでもないのに
フロイトも
明晰に見抜いていた
のが
わかる

「一部の人々の満足が、その他の、おそらく多数の人々の抑圧の上に成立することを前提とする文化」

「現在のすべての文化の現状はこうしたものなのだ」

「抑圧された人々が文化に対して激しい敵意を抱くようになる」

「この文化は抑圧された人々の労働によって可能になっているのに、抑圧された人々にはわずかな財しか与えられない」

「抑圧された階級の人々が文化的な禁止の命令を内面化することは期待できない」

「抑圧された人々は、この禁止を承認しないどころか、文化を破壊する」

「多数の人々を不満な状態のままにしておき、暴動を起こさせるような文化は、永続する見込みもないし、永続する価値もない」

どれも
当たり前の認識であり言葉なのだが
マルクスやプルードンが言っているのではなく
フロイトが言っているところが
ひさしぶりに思い出すと
新鮮

ダニエル・ゲランの『アナーキズム』から
なにか引用しておこうかと思い
パリでのある夕暮れ
レストランを探す直前に
ジベール・ジュンヌ古書店で買った
ガリマールの《イデー叢書》版をめくってみたが
やめる

「無政府思想が、回教徒におけるコーランのように、信奉者から崇められる教義であり、不可侵の、異議をさしはさむ余地のない原理であると思われないよう、気をつけていただきたい。違うのです。われわれが当然の権利として要求している絶対的な自由は、絶えずわれわれの思考を発展させ、(各個人の知能の求めるままに)新しい視野へと思想を高めて、思想をすべての規則や慣習の狭い枠から離脱させるのです。われわれは”信者”ではありません」

ゲランの言葉の
こんな邦訳メモが
ノートにあったので
これを
かわりに記しておく

「各個人の知能の求めるままに」
というのが
厳しくもあれば
アイロニーに満ちてもいる

ゲランの原文は奇をてらわない簡潔な名文で
読んでいて
気持ちがよくなる
そういう文に触れると
こちらの頭も澄む

アナーキズムについてよりも
彼の文を手元に置いておきたくて
あの晩
閉店ぎりぎりの古書店で購入したのを
思い出した

まだ
いろいろな友人や知りあいが
生きていた

そのうちのひとりと
どこかで待ちあわせて
やはり
晩秋だったか
夕食をとろうとしていた

 

 

 

家族の肖像~親子の対話 その57

 

佐々木 眞

 
 

 

ベロ出しちゃ、ダメでしょう?
大丈夫よ。誰に言われたの?
マルヤマさんだお。

「後にしろ!」って、言われちゃったんですお。
誰に?
お父さんに。

コウ君、ヒトのいうことを聞かないんでしょう?
聞きませんお。
それなら、お母さんも、コウ君のいうこと聞かないわよ。
いいですお。
ほんとにいいの?
いやですお。

私は、オオツカ先生です。
こんにちは、オオツカ先生。

湘南台、地下鉄あるでしょ?
あるよ。

「頭使えよ。助けてやんないよ」って言われたよ。
いつ?
昔。

お母さん、大町から行ってください。
まだトトトの信号が怖いの?
少し怖いんですお。
そうなんだ。

特別扱いしちゃ、ダメでしょう?
そうだね。
特別扱いしたの?
しないよ。

お父さん、お財布探してください。
分かりましたあ。

コウ君、ほら、お財布見つかったよ。
良かったです。

病院は、手術とかでしょう?
そうよ。

コウ君て、むかしイエズス会、行ったことある?
あるよ。ぼく、イエズス会好きだよ。
そうなんだ。

コウ君、いまどこ?
江ノ島ですお。

コウ君、今日アオイケさんが来るってよ。
いいですお。

お父さん、今日ヒガさん、録画してくださいね。
分かりましたあ。

お父さんに「ベランダの洗濯ものからにしろ」って、注意されたお。
あれは注意じゃない。ただ言っただけだよ。
注意されたお。

コウ君、PCR検査で陰性だったってよ。良かったね。
良かったですお。

カサタニ先生、コントラバス弾いたお。
そうだったね。

ノブユキさん、病院のお医者さんだったよね。
そうだったね。

お父さん、今日録画してくださいね。
分かりましたあ。
お父さん、言いましたよ、お母さん。
良かったね。

私はフクモトリコです。
こんにちは、フクモトリコちゃん。
ハイ。

お父さん、お風呂洗ってください。
分かりましたあ。

磯子行きだと、大船行かないのよ。
そうなんだあ。

セイザブロウさん、なんのお仕事?
下駄屋さんよ。
ぼく、下駄はきますお。
はいてね。

デザイナーって、なに?
どんなお洋服がいいかな、って考えたりする人よ。

クリバヤシさんのご主人、なにしてるの?
亡くなられたのよ。
なんで?
病気で。

「守ってないじゃないか」って、怒られたのよ。
誰に?
ナカムラさんに。
いつ?
昔。
大丈夫だよ。

ぼく、ヒガさんの録画、みますお。
「推しの王子様」ですか?
そうですお。

口ずさむって、なに?
ラ、ラ、ラとか、よ。

トトトト、やめてほしいですお。
トトトト、怖いの?
怖いんですお。
でも、目の悪い人はトトトで助かってるのよ。

マコトさん、今年ヒガさん泣いちゃったんですお。
そうなんだ。
泣いちゃったんですお。

お母さんが好きなのは?
ぼくですお……、ケン?

お父さん、大好きですお。
お父さんも、コウ君が大好きですよ。

 

 

 

社会は循環している、と気付かせてくれた逞しい少女へ

 

みわ はるか

 
 

緊急宣言がやっとやっと明けたまだ残暑が残るある日。
わたしはものすごーく久しぶりに同業の友人宅へ初めてお邪魔した。
同期入職で長い付き合いになりつつある。
2年も会っていなかったのでほんのちょっぴり緊張したけれど、変わらない優しさでできた雰囲気の空間にすっと溶け込めた。
職種は違うけれど、同じフィールドで活躍している。
彼女は優しさの中に芯のある性格をしている。
風が吹いたらポキッと折れてしまいそうな小枝ではなく、その風とともにしなるススキみたいな感じ。
白を基調とした素敵な大きな家を建て、子育てもものすごく頑張っている。
そんな彼女はいつも眩しい。
8月のもくもくした入道雲の中から差し込む太陽の光のように眩しい。

玄関から出てきた彼女は髪を短く切りさっぱりした印象だった。
その後ろから恥ずかしそうに顔だけ覗かせる可愛らしい女の子。
ん?!まさかこの子は4年くらい前に初めて定食屋さんで会ったあの子なのか??
そうか、そうだそうだ間違いない。
こんなにも大きくなったのかと心底驚いた。
聞くともう小学生らしい。
ミートボールのように焼けた肌色、きれいにまとめて結んであるサラサラの髪、もう一人でどこにでも行けてしまう靴を履いた足。
幼女は立派で逞しい少女へと進化していた。
ははぁ、我々が年を重ねるわけだ・・・・・。
なんか最近首が痛いとか、階段だるいとか、外出るの億劫だとか思うわけだ・・・・。
少女はもちろんわたしのことなんか微塵も覚えていなかったが、わたしに色々教えてくれた。
近所の公園までの近道、カラスノエンドウという植物、ピンク色をしたものすごく気持ち悪いタニシかなんかの幼虫(これは本当に驚いた)、通っている小学校(今やタブレットは必須らしい)のこと、友達のこと。
以前はあんなに幼かったのに今や先導してくれる、成長って目覚ましい、すごい!と心から感じた。
公園に到着すると滑り台があった。
しかも結構急傾斜だ。
ん?あっそうかこれはわたしにもやれということか!
もう何十年ぶりだろう、滑り台の上から見る景色は結構怖かった。
下に降りたとき上手く止めれるだろうか、そんなことを考えながら言われるがままに落下した。
うっ、なんとか大人の威厳は保った形で砂場まで降りられたと思う、きっと。
ケラケラケラケラ笑われたけれどなんだかとっても楽しかった。
こういう子がいるってことは、2回同じ経験ができるんだろうなぁと思った。
なんだかいいなぁと思った。
その後、もう一回もう一回と言う声にやんわりと断りをいれ、近くの東屋にみんなで腰をかけた。
ふぅ~、やっと休めるという心の声を隠してグビグビと冷たいお茶を飲んだ。
将来の夢はボートレーサーだという。
どこで覚えたのか、目はとてもキラキラしていた。
同じころ動物園の飼育員に憧れていたわたしからしても、夢をもつことはいいことだなぁと思う。
これから色んな職業を知っていく中でこれだと思えるものに出合い、叶えていけることを願っている。

帰り道、行きには気付かなかった風景が目に入ってきた。
新築であろう洋風の一軒家の集合体、規則正しく立ち並ぶ賃貸住宅、新しくできたであろう高速道路・・・・・。
売地、空き家もちょこちょこあったけれどきっとこれらもまた素敵な建物に変わってくだろう。
わたしが小さいころよく見た和風、3世代で住んでます、みたいな感じの所はほとんどなかった。
時は抗いもなく流れて行っている。

今回、少女を通じて街、人が循環していくことを肌で感じることができた。
周りのものもそうだ。
IoT化、DX、便利すぎる家電、行政の簡略化システム。
これからも想像をはるかに超えたスピードで色んなものが変わっていくと思う。
その中で循環していく瞬間瞬間を楽しめたらなと思う。
そう簡単にはいかないかな、どうだろう、ついていくのに必死かな。
それでも水のように生きていきたい。
先のことは本当に分からない。

また彼女や少女に会えること楽しみにしている。
もうその時は滑り台に誘ってもらえないかもしれないけど、練習だけはしておこうと思う。
素敵な人生がこれからも続いていきますように。

 

 

 

侵略

 

塔島ひろみ

 
 

この土手に 河川敷に
あっというまに広がった
どこまでも伸び そして増えた
秋 気がつくと河原には
セイタカアワダチソウの黄色が
ザザー ザザーと 嵐の日の海のように揺れていた
仲間をよぼう
肩を寄せよう
この黄色が 鮮やかだから
青空に美しく照り映えるから
私より高く伸び 届かないから
密生して 群落の奥は暗いから
なにかが 隠れているかもしれないから
企まれているかもしれないから
恐いから
手をつなごう
「わたしたち」という固まりになろう

軍手をはめよう

武器をとろう

セイタカアワダチソウたちは 
荒川放水路の土手下で
夕日を浴びて ギラギラと光った

強靭なこの害草を
手に手に 打ち倒し 引き抜き ハンマーで叩き 火を付ける
真っ黄色の花粒が空に舞う
空が染まる
黄色に染まる

よく荒れるから「荒川」と呼ぶ
荒川放水路は水防のために村をつぶして作った人工の川だ
水害はなくならず
河川敷にはいま 「越水までの水位表示」と書かれた堤防高を示す棒杭が立つ
その河原で 橋の下で 
冷え始めた夕刻
ゆったりと流れる黒い水を見ながら お酒をのむ
少しの豆と 焼き鳥の缶詰 
一人が恐くて 仲間と群れて お酒を飲む 
ポケットにハンマーを持っていた
仲間たちが恐かった
川が恐かった
堤防が恐かった
堤防の向こうが恐かった
自分が恐かった
ポケットのハンマーが恐かった
セイタカアワダチソウが恐かった

いつのまにか音もなく シラサギが水辺に立ち 餌を探している
こんな夜に 汚い川辺で
武装して 冷えたトリニクを突っつく酔っ払いたちの至近距離で
たった一羽で
恐くないのか
そして 橋から離れた暗いところには 一面 あの背の高い帰化植物たちが
除いても 除いても 生き延びて陽を受けて膨らみ 伸び 黄色く花開くしなやかな植物たちが
夜が明けるのを待っているのだ

セイタカアワダチソウと太陽と水

セイタカアワダチソウと太陽と水

無防備な鳥を
ハンマーを持った男たちが静かに取り囲む
輪を縮める
ライターも持っている

いつかセイタカアワダチソウになりたくて
この水のそばに 私はいた

 
 

(10月某日、四つ木橋下で)

 

 

 

餉々戦記 (葉つきの葉と茎 篇)

 

薦田愛

 
 

スマホのタスク&買い物メモに「葉もの」と入力
なにがしか青いものを手に入れたい、と心に付箋たてる
冷蔵庫の野菜室の中身がかたよると料理ビギナー
できるメニューがたちまち見つからなくなる
(応用力が育つには経験がまだまだ追いつかないというわけ)

それは師走だったか年の初めか
寒かったころ たぶん
北摂の駅前スーパー産直コーナーは夕方4時をまわって大にぎわい
規格はずれだの一昨日あたり並んで残った青ものに次つぎ半額シールが貼られ
傍から手に取ろうと前のめりのお客一同にはもちろん私もまじっている
(だってオオサカ)
島根産生きくらげのパック一六〇円にも半額シールを認めて白黒ふたつ籠に入れ
コーナー一周こればかりは値引きの有無にかかわりなく並んでいれば連れ帰ることにしている葉つきの小かぶ三玉ひと袋一五八円今日のは徳島産をわしづかみ
白じろきめ細かいに違いない鈴菜とよばれる実は味噌汁に入れようか水菜や薄揚げと煮びたしにしようか迷うところだけれど
いやいやじつは目当てはこのしっかと伸びたひとかかえの葉と茎なのだ
だって 
だってほら
小松菜もほうれん草も高騰しているって時になんて貴重な緑黄色
葉もの はもの
だからね
握り直すスマホの買い物メモから“葉もの”を消去
レジを通って籠からエコバッグに移し替え
よいしょっと担ぎ上げるバッグはすでに鶏胸肉だの鰤の切り身だのみりんのボトルだの入っているので重い
急がなきゃ日脚が短くなったものと踏み出す肩先へ
「すみません、あの」
すわ忘れ物と振り向けば三十歳前後とおぼしき細身の女性
「その葉っぱ、なんですか?」
指さす先はエコバッグから突き出た緑の茎と葉
「ああこれ? 蕪です。かぶの葉なんですよ」
「かぶってあの」
「そうなんです。かぶ。こんなに立派な葉っぱつきなので、食べてみたら美味しくて! 
 あそこの産直コーナーに並んでますよ」と長すぎる答え
「あのコーナーですね? ありがとうございます。買ってみます」とにっこり
いやいやよりによってごくごく料理ビギナーのこのわたくしが
食材のことを聞かれるなんてと冷や汗かきかき
よいしょっとバッグをかつぎ直し
家への近道だけれど急坂へと前傾姿勢

もとはといえば最寄りの駅前ビルの図書館
レシピ本をあさってみつけたひと品は
私の目にはちょっとひねったおひたし いや和え物
ほうれん草をゆがいて絞って切ってまた絞り
そこへすりごま、かつおぶしにオリーブオイル、ちりめんじゃこを投入
ぽん酢を和えてできあがり、だったのだ
そもそもつれあいユウキが
「ほうれん草のおひたしって、なんだか時々食べたくなるんだよね」
と言うので
ありきたりのおかかのせを何度か作ってみたあとのこと
そういえばというくらいかすかな翳り
ほうれん草にはほの暗い思いが、あるといえばあるからだろうか
ついね 
くったりくたくた
ゆですぎてしまってね

五歳だったかあるいは
学校に通い始めていたろうか
常づね仕事から戻るのが遅い父を待たず
母とふたりの夕食
ならぶひと皿がその夜
ほうれん草のおひたし
ゆでられかたく絞られ
かつぶしと醤油
つまんではこぶと
鼻をつくあおみのにおい
むぐ んぐっ ぐちゃ
どれだけ噛みしめても
くちいっぱい筋っぽくて
それはつくり方のせいだったのか
そのころのほうれん草はそんなものだったのか
くちゃっくちゃっ ぐちゃむちゃ
むふう
ぼお
のみこめなくて むちゃぬっちゃ
ぼお
ぬっちゃ ぐ ぐっちゃ
ぼおお

ぴしっ 
いたっ

打たれたのだと すぐには
わからなかった だろう
ぼお
いつまで噛んでるのよっ

言われた

思っていたが
つくって食べさせたひとは
のちに
その子すなわちわたしが
テレビを見ながらぼおっとして
口が止まっていたのだと言った
血がにじんだ
かるくはたいたらどこか
くちのなかを嚙んだみたい、と

「どうしてかな、こどもの時は
 ぼくも好きじゃなかったな
 こどもの味覚じゃわからないのかもしれないね」
ガスを早めに止めて
鍋からざるへ すぐに冷水
それでもね
くったり
ぬちゃっ

ところがね
それがさ

日脚短くなる頃どこの店頭
まるい白い実がみっつに葉っぱあおあお
茎もしっかとぐいぐいのびきったそれが
かぶが
並んでいて

ざくり 実を切りはなし
実は野菜室に収める(出番は別の日)
ひとにぎりに余る葉と茎は湯がく前に
ざっくざく 大きなざるふたつに盛ってにゅうねんに水
その間に鍋にはぐらっぐらと湯
だってね
湯がいてから絞って 切ったらまた絞る
その段取りもたもたするのをひとつ減らしたい
ざるから鍋へ まず茎からどしどし
ガスは止めて刻んだ葉もぎゅぎゅっ
ややあって
念のため茎の太めひときれつまんで もぐ
ん、だいじょうぶ
ざるにとって流水 水けきりながら
オリーブオイルちりめんじゃこかつぶしすりごまぽん酢
オールスター揃いましたら
ぎゅぎゅっきゅっ
握って絞り にぎってはしぼって
次つぎボウルへ
どさどさっ
つつうっばらばらはらりぱららっしととっ

混ぜ入れまぜいれ うん
葉っぱは嵩が減るよね でも
茎はもりもり
すきとほるあさみどりの茎が
かつぶしとすりごまをまとって
きれい

ばりっ もぐっ んぐ
噛みごたえあるよね
「ああ、これはいいね。
 ほうれん草よりこっちがいいな」
うん、おいしい

かくして
白い実がまだ野菜室にあるうちに
次の葉つき小かぶをとくとくと持ち帰る
かたよるにも程がある
季節の幕開け

 

 

 

夢素描 19

 

西島一洋

 
 

死、その2

 

カヌーを見ると死んだ水野を思い出す。先程、僕が運転する4トン車の左横に信号で止まった赤い車。ルーフに赤いカヌーが一艘、ちょんと載っかっている。

水野は僕のひとつ下。高校の時、美術クラブで一緒だった。呑気なやつだった。喋り方もおっとりしている。「暑いなあ!」と言うと、必ず「夏だも…」と、若干だみ声で返ってくる。とりつくしまのないやつだ。

高校を卒業してからは、滅多に会うことはなかった。風の噂で、奈良でカヌーの小さな店を開いているということは、聴いていた。

いつだったか、夕刻、テレビをぼんやりと見ていると、唐突と言えばその通りだが、彼の死がニュースで流れていた。チャンネルを変えても、あちらこちらで流れていた。

彼はカヌーのツアーを主催していて、カヌーで沖に出たところ、参加者の一人が帰ってこなかった、彼はその人の助命と探索をするために再び一人で沖に出て行った、そして、その参加者は無事戻ってきたが、彼は戻ってこれなかった、彼は死んだ。責任を感じて必死に探したのだろう。

彼の死骸は相当傷んでいたらしいが、通夜での棺桶の中の、仰向けになった彼は、若干フランケンシュタイン状態ではあったが、それなりに綺麗に修復されていた。

さて、それが、いつだったか、記憶を順に辿って行こう。

昔であることには違いないが、大雑把に簡単に、そしてあっさりと「昔」…、ということで落着するわけには、いかない。「昔」でお茶を濁すことは許されない。つまり、その記憶の厚量というか、その濃厚さは尋常ではない。

おそらく、自分以外にとってはどうでも良いことに違いない。だが、いつだったか、が、気になる。

で、そのどうでも良いことをだらだらと書く。

僕が、あの家に住み始めたのは、二十九歳の時。長女が生まれる僅か数ヶ月前。長女が生まれたのが、1983年。その頃、僕はテレビを意図的に見ていなかった。

僕は基本的にテレビ嫌い、正確に言うとテレビは苦手、というよりも、テレビは僕の性質に合っていない。

どういうことかというと、一旦、スイッチを入れて、テレビを見始めると、何も手につかない、テレビに没頭してしまう、ただぼんやりと見ているだけなのだが、テレビを見ることしかできない、釘付けになってしまう。

しかも、何時間も何時間も離れることが出来ない。見たくもない番組でも釘付けになってしまう。完璧なテレビ依存症なのだと思う。だから、鼻っからテレビを見ない。

僕は、あの家に行ってから、テレビは持っていたが、アンテナも繋がなければ、もちろん電源も。

あの家に行ってから三年が経った。何故、三年というのを覚えているかというと、長女が女房の腹にいる時、あの家に住むようになった。そして、その長女が生まれ、三歳になった時、テレビ愛知の開局で、気になっていた写真家(名前が出てこない)が出るというので、それを見るだけのためにテレビをアンテナに繋いだ。

長女は、この時、三歳になって、実質テレビを初めて見る体験をした。実家とか、友達の家とかで、僅かな時間ではあるが、見る体験はしていたと思うので、テレビそのものの存在を知らなかったわけではない。

しかし、テレビの映像を見るという行為は、彼女にとっては強烈だった。テレビの映像に釘付けになって、動かない。まなこを見開いて、ただ、ただ、見入っている。

あまりにも、まばたきをしないので長女に、「目をパチパチとしなさい。」と言うと、自分の小さな両手を平手にし、目をバチバチと叩いた。

と、言うことは、つまり水野が死んだニュースを見たのは、1986年以降ということになる。ただ、僕の記憶では、僕は、ぼんやりとテレビを眺めていた。見入ってはいなかった。

まあ、記憶を辿るのはここまでか。

この頃は、体現集団ΦA ETTAの草創期、美術雑誌裸眼の編集発行や、アパルトヘイト否国際美術展の運営など、精力的に動いていた時期でもあった。

いずれにしても、水野は死んだ。ただ、それだけのことである。

下の名前が思い出せないので書かずにいたが、思い出した。三郎、さぶろうである。水野三郎か…。

水野のひとつ年上、山田省吾というのも死んだ。つい最近のことだ。つい最近と言っても、僕は知らなかった。

山田省吾は、僕の中では友人の中で濃厚な関係を持った一人、トップスリーの内に入る。つまり僕の親友三人衆のうちの一人である。

なのに、省吾を死んだことを知らなかった。

今年、つまり2021年の春だった。僕は、花粉症をこじらせて、苦しかった。それに加えて、虫歯が化膿し、鼻から脳天にかけての強い痛み。熱も37度5分越え、それが三日以上続き、ついには38度5分以上の高熱も出た。

一般の医者がもうやっている時間でもなかったので、時間外もやっている済衆館病院に電話をすると、高熱で新型コロナの可能性もあるからか、対応できないとのこと。結局、救急を通じて、小牧市民病院を紹介してもらい、診察してもらった。新型コロナの検査をしたわけではないが、症状から、副鼻腔炎、つまり蓄膿をこじらせていると診断され、翌日、町医者の耳鼻科に行った。

翌日のニュースで、昨夜最初に問い合わせて断られた済衆館病院で、昨日新型コロナの院内感染があり、数人が感染したらしい。それで、昨夜の済衆館病院の電話の応対が変だったのだろう。

副鼻腔炎だけではなく、虫歯の痛みも酷かったので、歯医者にも行った。歯医者は、その後、治療のため何回も通った。

何回目だったか忘れたが、その歯医者で、高校の時の同窓生、西安秀明にばったりあった。彼は、近くに住んではいるが、滅多に会うことはない。

西安は、「久しぶりだなあ」の後の開口一番、「省吾が死んだこと知ってる?」と言う。僕は知らなかった、唐突だった。

省吾というのは、山田省吾、高校時代の美術部で一緒だった。高校を卒業してからも受験のため、名古屋亀島にあるYAG美術研究所に何年かは一緒に通った。

何故か、苗字では呼ばなかった。山田とか、山田君とかと、そのように呼んだ記憶が全く無い。呼び捨てで、省吾だった。

あとで、西安が、省吾が死んだ日と死因をメールで送ってくれた。死亡日は前年2020年の11月2日、死因は胆嚢癌。

省吾は片目、つまり隻眼だった。どちらの目かは忘れた。すこぶる画面の中のヴァルールが整った美しい絵を描くやつだった。天性のものがあった。

僕が勝手に推察するには、片目の人は、両目で見るような立体感というか空間の三次元性が希薄だ。もちろん、片目でも、体を動かして、目の位置をどんどん変えれば、立体的空間感は把握出来る。両目が見える人は、常に、物が立体的に見えるのだ。意識せずとも。僕が思うには、この立体的な空間感に惑わされて、画面全体の調子とかヴァルールとかが狂ってくるのだと思う。

ともかく、省吾は死んだ。ただ、それだけのことである。もう会えない。それも、ただ、それだけのことである。

歯医者で同じ西安に、今度は僕の方からの死の情報「平松が死んだこと知っている?」と言った。彼は知らなかった。

平松明は、省吾と同じく、僕の中ではトップスリーの友人の一人だ。死亡日は2021年1月27日、死因は間質性肺炎。葬式は家族葬ということで行っていない。

平松は、小学校も、中学校も、高校も一緒だった。しかも、すぐ近くに住んでいた。しかし、不思議なことに、小学校も、中学校も、高校も、彼との付き合いは、皆無に限りなく近いほど、ほとんど無かった。

平松と付き合い始めるようになったのは、十九歳の頃だったと思う。僕は、飯田街道沿いの木造モルタル造りの古い六畳一部屋のアパートに住んでいた。

ある朝…、だったか、ある夜だったか、忘れた。部屋の出入り口の扉を中から開けると、暗い木の廊下に、汚い男が一人うずくまっていた。それが、平松明だった。

「帰って来た。」と彼は言った。「もう何時間もここに居た。」とも言った。状況はうまく掴めなかったが、とりあえず、僕は、彼を部屋の中に招き入れた。

ゆっくり、話を聞くと、彼は、東京から自転車で野宿しながら、ここに辿り着いたとのことだった。生家はすぐ近くなのに、何故家に帰らずに、僕のところの、しかも廊下なのか。僕の部屋のドアをトントンすることもなく。まあ、その辺は、いい感じということで端折ります。

彼は、東京の明治大学に通っていたのだが、自らの意思で中退したとのことだった。学生運動の内ゲバで、明治大学の校門のところ、目の前で、ツルハシでヘルメットの上から突き通し、つまり、そういう殺人現場を見たことや、学生運動の追い詰められた過激で情緒不安定な状況を話してくれた。

それからは、僕は同性愛者ではないが、男の裸が好きで、彼は僕の絵のモデルを快く引き受けてくれて、彼の裸をたくさん描いた。

平松明は多彩なやつだった。物言いは、ゆっくりおっとりしている、声は低く大きい。

その後、平松明と、彼の友人日置真紗人と、僕の三人で、ぴしっぷる考房という生活共同体を作った。雑誌ぴしっぷるを編集発行し名古屋の文化を担うくらいの思い入れと勢いがあったが、赤字が続き、主にデザインと印刷で収入を得ていた。三年ほどは続いたが、仕事も乏しく、生活も苦しく、解体した。

平松は、百貨店丸栄の奉仕課、つまりエレベーターガールと結婚して、五人くらいの子供を作った。

いつからか、あまり会うことが無くなった。いつだったか、そう、おそらく、水野が死んだ頃と同じ頃だったと思う、久しぶりに彼から電話があった。「躁鬱病なんだ。笑うことが全く出来なくなった。」この言葉は、不思議と今も覚えている。

そうか、平松明も山田省吾も死んだのか。そうなると、あと一人か。つまり、僕の中での、親友三人のうちの二人が死んだ。あと一人は生きているのだろうか。あと一人というのは、後藤久彰である。

後藤に連絡をした。後藤久彰は生きていた。彼は、平松の死も、省吾の死も、知らなかった。

生きてて良かった。もしかして、死んでるかしらんとも思っていた。まあ、彼についても、書きたいことは山ほどあるが、生きていたので、端折ります。

ただ、一言、彼、つまり後藤久彰は、優れて良い絵を描く。今は、描いていないかもしれぬ。

後藤久彰は生きていた。ただ、それだけのことだ。