廿楽順治

 
 

きみたちの内に塩をふりなさい
(泣いてなんかいねえやい)
もしも片方の目玉だけが
しょっぱいのなら
抜いてしまいなさい

片側だけでこの川岸にいればいい

風景のついてない方の足も
切ってしまいなさい
きみたちはどこまでも
全体である必要はない
塩はよいものである

この町がほんとうに
片方の目玉だったらね

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その5

「祖父佐々木小太郎伝」第5話 父帰る
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 

前にも述べた通り、私の父は酒好き遊び好きで、飲む、打つ、買うの三拍子を、いずれ劣らず達者にやったものだ。それがいつまでたっても目が覚めず、四十を過ぎても五十を越してもまだやまず、かえってひどくなるというだらしなさ……もともと商売上手と人にもいわれ、世間の気受けもよく、金も相当儲けてきたものであるが、何分お人好しで、勝負事をしても人に取られるばかり、(おもに花をやった。本バクチはやらなかった)そのくせ大きなことが好きで、コメや相場に手を出して、身上にまたしては大穴をあける。金のかかる女出入りも絶え間がない、といった具合だから好い目の出よう道理はなく、母が忠実に守る履物屋の店もだんだんさびれ、借金は増す一方で家計は一日一日と窮地に追い込められていった。

その火の車の中で、明治四十三年四十九歳で母は病死した。
気の毒な母! まるで父に殺されたような母! 母をいとおしめばいとおしむほど、父への憎しみが深くなるのを、どうすることもできなかった。母のかたき、と私の父を見る眼は日増しに険しくなった。

母の死後ますますヤケになった父は、もはやわが家にも綾部の町にもいたたまれなくなって、大正元年、五十八の好い年をして若い芸者を連れて、世間には内緒で隠岐の島へ逃げて行ってしまった。

私はそれを舞鶴まで送って行きはしたものの、父に対する感情はとげとげしく、別れを惜しむというしおらしさなどはどこにもなく、父にもなかった。

父を送って帰った夜から、早くも債鬼は門院に迫って、私を借金地獄に追い込んで、貧乏あずりにあがき苦しむ日々が続いた。幸い私はこの四苦八苦の逆境を案外早くきりぬけて、借金払いも大体済ませ家業に忠実な妻と共に、履物店も旧状以上に回復し、生活もほぼ安定し、郡是株の強行買が当たって、だんだん好い目がが見えてきた。

今までは思い出す隙もなく、もちろん父からは一度の便りとてなく、人のうわさにも聞かず、その消息は一切分からなかった。その父が、ひょっこり帰って来ようとは、夢にも思わぬことだった。

大正五年、師走も近い冬の一夜、綾部の町には人声も絶え、寒い木枯らしが町を吹いてガタガタと障子に音雄を立てていた。

真夜中近い頃、入り口の戸をホトホトとたたく者がいる。静かに、あたりを憚るように。
「どなた?」と訊ねても返事がない。うかり開けられぬと思ったが、泥棒とも思われないので、妻菊枝と二人で立っていって開けてみると、父だった。

父帰る! この寒夜に上に羽織るものもなく、汚れた筒袖姿の、四年見ぬ間に六十の坂を過ぎて、追いやつれてみすぼらしい父が、ションボリと戸の外に立っていた。
おずおず敷居をまたいで中へ入るなり、土間に身を投げくどくどと前非を悔いて詫びいる父に対して私の眼に涙は浮かばず、私の口はやさしいいたわりの言葉を発することができなかった。

この冷たい私とは反対に、私の妻は父に対してやさしかった。食事を供し、着替えを与え、暖かい寝床に寝させていたわった。その後もけっして悪い顔を見せず、明け暮れの世話をよくし、私に内緒で小遣い銭なども与え、キチンとした身なりをさせて大切にした。

しかしながら妻のこの仕打ちが私には苦々しかった。「そんなにまでせんでもよい」と口に出して叱ったりもしたが、ひたすらに父を憐れむ妻の純情にほだされて、私の頑な心も少しづつほぐれていった。

父は隠岐にいる間のことをあまり語らなかったが、やはり腕に覚えのある桐買いをやり、これを加工して下駄の素材を造っていたものらしい。ところが運悪く火事に遭って焼け出され、おまけに連れていた芸者に逃げられ、寄る辺はなし、せんすべ尽きてようやく松江に渡り、そこで歯科医をしていた君美村出身の四方文吉氏に泣きついて旅費を借り、綾部まで帰ってきたということで、しばらくは乞食同様の見過ぎをして放浪していたものとみえて、からだ一貫のほかは一物も持たず、着のみ着のままの着物は垢だらけシラミだらけで、これを退治るのに妻は困ったということである。

妻はどこまでも父に親切だった。一人では寂しかろうと福知山の実父に相談して、身内から後家さんを連れてきて一緒にし、離れの一室を与えて寝起きさせたが、二年ほどすると女が病死してしまった。

すると今度は町内のさる後家さんに話して、西本町裏の小さい家に住んでもらい、そこへ父を同居させ、生活費全部を支払って世帯を持たせた。その間は父も気安く私の店に出入りして、夷市などで忙しい時には、随分よく手伝いもしてくれた。

ところが父と同居していた未亡人が、息子の朝鮮移住について行ってしまった。その時父はすでに七十を過ぎていたので、家に引き取った。父は孫娘の守りなどをして好いおじいさんになりきり、昭和四年四月、七十五歳で死んだ。

最後の二年ほどは盲目になったが、楽しみのない父を慰めるために、私は早くラジオを買った。綾部にも、福知山にもまだラジオ屋がなく、大阪から五つ晩泊りで技術者が来てとりつけたが、町では郡是、三ツ丸百貨店の次だった。

なお父は私の信仰に倣ってキリスト教に入り、死の前年に丹陽教会の岡崎牧師から洗礼を受けた。

今から思えば、それはどうすることもできない宿命的のものではあったが、私はあまりに父を憎み、父に冷たかった。おちぶれ果てて隠岐から帰ってきた時、もし妻がいなかったら、私は父を家に入れなかったかもしれない。

「おらが女房をほめるじゃないが」私は死んだ先妻に感謝せねばらなむことが数々ある。なかでも私が冷酷であった父に対して、私の分まで孝養を盡してくれて私に不孝の謗りを免れさせ、不孝の悔いを残さずにすませて呉れたことは、妻に対する最大の感謝である。